循環社会への貢献について日印先住民と被差別マイノリテーの部会
国連生物多様性条約締結国会議
循環社会への貢献について日印先住民と被差別マイノリテーの部会
2012/10/11~15
循環社会のための伝統知レポート
川元祥一
人類の生存とその未来にとって非常に大切なこの国際会議に参加できたことを名誉に思い、感謝いたします。
私は1940年、日本・神戸の小さなアパートで生まれました。両親は隣の県、岡山県の被差別部落の出身です。
私が三歳の時父が亡くなり、母は私と弟を連れて自分の実家、岡山県津山市に帰って二人を育てました。
そこが当時四十戸の被差別部落です。
父の出身はそこから四十㌔北東に行った美作市大原町の被差別部落でした。
私が育った家の外見は周りの農村などと比べて平均的で目立って劣るものではありません。
しかしその生活、家計は破綻していました。
私が子どもの頃の家族は母の両親と、結核を患う母の弟と、母の姉が初婚で産んだ従兄。
彼の母は彼を残して再婚していました。そこに私たち親子三人の七人家族でした。
私が小学校にあがる頃祖父母は亡くなっていました。家族で定職を持つ者はいません。
母が行商して生活を支えていました。
今考えると二人の大人の男が定職を持たないのは、差別の結果だったのではないかと思います。
田圃が約50アールあり、その収穫で最低食べられました。田を耕作するのは私と従兄です。
しかし、私が成長するに従い、その田がなくなりました。伯父や従兄が売ってお金にしたのです。
家の外見と生活の落差は、部落差別に基づく大きな出来事に原因があります。
その事実を知るのは私が高校生から大学に行くようになってからです。
私は中学を卒業してすぐ働く予定でした。
その頃運よく母がある病院の炊事婦として雇われ、月給取りになったのです。
それで高校進学が許されました。
大学進学は誰も反対しましたが、自分で考えるようになっていた私は、働きながら大学に進学しました。
中学生の頃、家に重苦しいタブーがあるのに気づいていました。
気づくきっかけは小学校にあがる前に聞いた祖母の話です。
二人で縁側に座っている時、彼女が突然、はるか前方に見える隣の農村を指さし次のように言ったのです。
「昔あの村の者が竹槍を持ってこの村を襲ったことがある」と。
祖母はその時他の話もしたかも知れませんが、私にはこの言葉が印象に残りました。
信じ難いことです。そして「どうしてそんな事が起こるのか?」という疑問が長く続くことになります。
祖母は私にいろいろな話をしました。他の日に聞いた次のような話も印象に残りました。
「村を襲った大勢の人が、この家に来てお爺ちゃんを連れ出して、縄で縛って、何か言うんじゃ。
承知しなければ家の大黒柱を切る言うて。
お爺ちゃんは黙って頑張ったらしいで」
この話について私は、ずっと後で母に確かめたことがあります。
母はその事について何も話さなかったのですが「この家は昔は貧乏じゃなかった」と言いました。
私は母の強がりかと思いました。
2
当時からして約80年前の1873年に村で起こった大きな差別事件について高校生のころ知りまし。
この事件は私の村だけでなく津山市全体、かって美作国と呼ばれた地域一体の被差別部落が周りの農民などによって襲われた「エタ狩り」と呼ばれた事件です。
私の村は江戸時代のエタ身分だったのです。
小学生の頃から自分の村が周りから蔑まれているのを感じていました。
高校生の頃そうした雰囲気の社会的、歴史的意味がわかってきます。
1867年徳川幕府が倒れ、近代的な明治政府が始まります。
1871年までに封建的な身分制度が廃止されます。
その最後の年にエタ・ヒニン身分も廃します。「賤民解放令」(以下、解放令)です。
しかし明治政府が施行する新しい制度としての解放令や、徴兵制、学制、税制は当時の民衆になかなか認められません。
解放令の直後、西日本各地でそれに反対する農民たちの一揆が起こります。
それが「エタ狩り」です。「元のエタのままにしておけ」と主張。
当時の地方役場や部落を直接襲いました。
解放された旧エタ身分の者が殺されたり、家を焼かれたりしました。
今は「解放令反対一揆」と言います。
1873年になって私の村の岡山県美作地方(現・津山市)でも一揆が起こり、40カ所ほどの部落が襲われ263戸が焼かれ51戸が破壊され、18人が殺害されました。
同じ年に福岡県では500戸から2000戸が焼かれました。
私の家もこの時破壊されたのです。私の家にあるタブーとはこの時の様子です。
私は大学に入って部落の歴史に関心を向けました。
「解放令反対一揆」の裁判記録も見ました。
そこに私の家のことが証言されています。
次の引用文の末永利喜蔵がそれです。
母の曾祖父です。
証言は隣の農村の代表、当時の総代です。(引用のカッコ内は私の説明)
「当(一八七三年)五月二十七日、兇徒共(一揆の農民)諸村ニ峰起シ、旧穢多ノ屋敷ヲ棄毀放火(壊して放火)等致ス旨伝聞候ニ付(そんな噂を聞いたので)、当村ニハ旧穢多屋敷十戸有之(この屋敷が私の村)、大ニ懸念致シ居ル処、(略)諸村鵜合ノ党民共、大勢村内旧穢多ノ住所ヘ押寄セ、形次郎竝ニ末永利喜蔵(これが私の家)宅等ヲ乱暴致ス処、(この二軒が特別に乱暴される理由が次に述べられる)形次郎・利喜蔵ニ於テハ屠牛ノ醜業ヲ致スニ依リ、是非トモ家屋可及放火(放火すべし)ト暴徒ヨリ申シ出ル(しかし類焼を恐れて打壊しとなる)」(『近代部落史資料集成』三一書房)。
[現代訳・1873年の5月27日、凶暴な者が各地の村(農村など)から立ち上がり、旧エタの家を破壊しているという噂を聞いた。
自分の村にも旧エタの家が10戸あるので心配していた。
そのうち多くの暴徒が村内の旧エタの村に押し寄せ、形次郎と末永利喜蔵の家を乱暴した。
形次郎と利喜蔵の家は屠牛という醜い職業をしているため、どうしても家屋に放火すべきと暴徒が申しでた。
(しかし他の家に類焼するのを恐れて打壊しとなった)〕
当時十戸だった私の村の二戸だけが打壊しにあった理由がはっきりわかります。
証言にある「屠牛」は屠畜業のこと。「醜業」とは、みにくい、憎むべき仕事だ。
これにより屠畜業が排斥・差別されていたことがわかります。
そしてまた、祖母の話がここに符合しているのもわかります。
そうした話を合わせると、村を襲った農民たちは、彼らが「醜業」と考える屠畜業をやめるよう迫ったが、私の家の利喜蔵ともう一人形次郎がそれを断ったため打壊しにあったと言うことになるでしょう。
しかも私の家はその後屠畜業をやめたようで、私が育った頃屠畜業の面影はまったくありません。
そのため家計が破綻したと考えられます。母の話はその前後の状況を語っていると思います。
日本の政府は古代から約1000年肉食を禁止していました。
しかし陰で食べていたので屠畜や軍備としての皮革生産(鎧甲等武具の材料として皮革が使用された)は見えないように続いていました。
日本人の本音と建て前の使い分けはこうした背景があるのではないかと思います。
屠畜は生牛を殺すため特に「あってはならない職業」として排斥・差別されました。
明治政府が肉食を奨励したのは1872年。
これは欧米の肉食文化の影響によるもので、日本の歴史を反省したものではないのです。
そのため日本人の心の中の差別が消えなかったと思います。
[部落差別を語る時の<日本>は沖縄、アイヌ社会を除く和人社会であるのを前提とします。以下同]
部落差別の原因は屠畜業だけではありません。次にその全体の内容をみますが、それは一定の共同体(一定の職業、分業を維持する共同体)に世襲的に現れるものです。
私は部落出身なのを隠さなかったのですが、大学に入って以来、東京の近代的都市で生活しているにもかかわらず、結婚の時、相手の女性の親、親戚から厳しい結婚差別を受け、しんどい思いをしたものです。
3日本では屠畜業や皮革業、警察機関の現場の仕事が、中央政府の周りで古代から差別されました。
それらが社会一般の中で世襲の身分制度と一体となり、居住地も限定されてエタ・ヒニン身分として戸籍登録され固定的差別になったのは江戸時代です。
身分と職業、居住地が固定的に一体となり、厳しい管理として戸籍登録されるきっかけは、キリスト教を禁止する徳川幕府が、キリスト教が社会の底辺で根強く広がるのを食い止めるため、全国民、全個人の宗教管理の方法として、戸籍制度を強いたことにあります。
仏教信者であるのを証明するため、全国民を身分別、居住地別、寺院別に登録し、宗教とともに身分、職業、居住地の変更が出来ないよう厳しく管理したのです。
このようにして差別される職業が世襲の身分とともに固定的となり、全国に少数点在するエタ・ヒニン身分の共同体、現代の部落共同体の原型が形成されます。江戸時代は次のような職業を行っていました。
「水番、山番、牢番、街道守,警備役、刑場の労役、死牛馬処理、皮細工、神社・仏閣の清め」
全国の農山漁村町にある諸々の共同体の間に部落共同体が点在する理由もこれらの職業にあります。
これら職業は宗教管理される以前から、人々の生活や職業の展開に必要なものとして、日本的な、あるいはインドをはじめ南アジアのカースト制に通底するものとして、あるいはまたアジア的な諸々の共同体の特徴として、本来分業的に存在するものと思われますが、これらの職業はすべて日本人がケガレと考えた事象を対象にしています。
水番につづく六つの仕事は警察機関の現場です。
犯罪がケガレとみられたのです。
古代の警察機関の検非違使の支配下にあって現場で犯罪者を捕まえる人を「清め」と呼んだのです。
そしてこの「清め」が「エタ」と呼ばれるようになるのが中世です。
しかしその頃は身分名ではなく、清めの職業者を示しました。
死牛馬処理や皮細工は「死穢」に触れる屠畜、皮革産業です。
最後の「神社・仏閣のキヨメ」は祭礼の場からケガレの事象を取り除き、掃除し清める仕事です。
このようにみると部落共同体が歴史的に行った仕事のすべてが「ケガレを清める仕事」なのがわかります。
この職業的カテゴリーが大切な意味をもちます。
ケガレに触れる仕事が排斥・差別されたのは確かです。
だから、その社会的な観念についてまず考えておきます。
そうすると、逆に差別を克服する道筋もみえてくると思うのです。
部落差別には基本となる二つの観念形態が指摘されています。
それはケガレとされる死や病などを避けようとする「忌穢」と、もう一つ、ケガレに触れてもその人がケガレと考える「触穢」観念です。
この二つの観念があるため「聖」なる天皇や各地の神職をはじめ社会一般はケガレに触れません。
とはいえ「死穢」といわれる動物や人の死をはじめ、肉食は絶えないのです。残念ながら病や犯罪も絶えません。
だからケガレに触れる人がどうしても必要です。
部落共同体はそうした現象を防ぎ、清めるために全国各地に点在したのです。
そしてまた、日本の民俗学では「清め」はケガレからの「再生」「回帰」を意味しているのです(『ケガレの民族誌』宮田登)。
こうした意味をもつ「ケガレを清める仕事」は最初、国や各地の祭祀の清めとして、あるいはまた古代の警察・検非違使の現場で働く清めとして広がり、中世は各地の戦国大名とその移動によって全国的に広がります。
しかしその頃までは世襲的な身分ではありません。
だから緩やかな差別です。
徳川幕府になって固定的な差別になるのです。
この固定的差別が現代の世襲的差別につながります。
4
「ケガレを清める仕事」をもう少し詳しくみる必要があります。
部落共同体が行った「ケガレを清める仕事」は具体的であり、それゆえにその清めは具体的な技術、あるいは科学的知識が必要です。その意味で宗教的に唱えられる「清め」とは違うのです。
また、歴史的文献の中でも、エタ・ヒニン身分の仕事が「役」とか「御用」と書かれます。
それは、差別されながらも社会的に機能する職業であり、農山漁村町の人々の生活や職業に必要な分業なのを意味します。
そうした意味を重視して私は江戸時代のエタ・ヒニン身分の職業=「ケガレを清める仕事」を社会的意味をもって「清め役」と呼びます。
そして、農山漁村町の職業的カテゴリーの中に「清め役」という職業集団、部落共同体を並列します。
「清め役」としての部落共同体は具体的ケガレに触れているため差別されますが、その仕事をさらに具体的にみると、さまざまなケガレの事象をケガレではないものにしているのがわかります。「清め」とは本来そのような意味をもっているのです。
「清め役」はその仕事を通して、すべての人がそれに触れることが出来る製品、状態、新しい価値に変化させたのです。
死んだ動物の皮が腐らない皮革になりカバンや靴に変わる例が典型です。そ
してその変化には技術が必要なのです。この変化をもたらす技術とその結果を私は「部落文化」と呼びます。
その文化はまた、放置すれば腐蝕して価値をもたない物を新しい製品とし、新しい使用価値を生んでいることから、それを私は「再生文化」と呼びます。そうした文化は、江戸時代から固定的、特定的に、あるいは差別されながら部落共同体が維持発展させながら、現代も人々が享受し共有しているものなのです。
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江戸時代の清め役の技術をもう少し詳しくみます。
死牛馬処理というのは農村などで動力として飼育された牛馬が死んだ場合の処理です。
死んだ牛馬は「死穢」であり農民たちは触れません。
放置すれば腐食して使用価値を失います。
清め役は腐蝕前にそれを解体処理して生皮を腐らない皮革に、毛は筆に、骨と生皮は煮詰めて膠や墨汁の墨に、肉や内臓、骨などは乾燥して肥料とし、社会一般に還元しました。
この中で最も高度な技術が生皮を腐らない皮革にすることです。
生皮は腐蝕しますが皮革になると柔らかくて腐らない「革」になります。
カバン、靴が腐ったことはないでしょう。
この変化をもたらすのが「なめし」という技術です。
この技術は古代から世界中にありました。
日本ではこの技術者が差別されたのです。
部落共同体は農山漁村町のそれぞれの共同体の間にあって犯罪者を捕まえ、更生をうながす牢に入れて管理しました。
また農民の耕作物の安全と豊作のために水番、山番をしました。
地域住民が山の樹を勝手に伐採しないよう番をすることもありました。
自然の豊穣や農作物の豊作を祈る祭では、その場を「聖」の時空に変える行為として掃除や死穢の処理も行いました。
それら全部を清めと言ったのです。
清め役がもっていた典型的な技術・文化でもう一つ大切なものがあります。
あまり話題にならなかったのですが、江戸時代の人体解剖技術です。
古代から江戸時代まで日本の医者は人体を解剖してはならなかったのです(『蔵志』山脇東洋)。
理由は明確でないですが、古代から天皇や神職が唱える祝詞で人の肌を切るのは罪とされ、清め祓の対象でした。
その人体解剖技術を清め役が持っていたのです。
江戸時代に人体解剖書を書いた医者で「日本近代医学の父」といわれる山脇東洋(『蔵志』)と上杉玄白(『解体新書』)は、それぞれの書を現すにあたって「屠者」(エタと同じ)と「エタ」に人間の死体を解体してもらい臓器の名を教えてもらったと書いています(上杉玄白は晩年の『蘭学事始』)。
こうした技術も「死穢」としてのケガレに触れる清め役の仕事から派生する技術であり知識と考えます。
そしてここに、人や動物の死に触れて新しい価値、文化を産みだす「部落文化」の典型があり、その技術がリサイクルとしての「再生文化」といえるものであるとともに、その歴史と伝統は循環社会のための伝統知というにふさわしいものと考えるのです(拙書『部落文化・文明』参照)。
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農民や漁民、山の民が自然の富を採取し、町がその富を交換、流通する文明的装置だとするなら、ケガレに触れて清める「清め役」=部落共同体は、人間を含めた自然の中の「死」に触れ、そこに技術や知識を加え、それらを再び人間の世界に価値あるものとして再生・還元する技術者であり、それを維持した共同体といえるでしょう。
すべての人がその中で生きる自然の循環としてのエコシステムは、自然の富だけでなく、あらゆる生物の生と死、あるいは食物連鎖を包摂したうえでなりたっています。
人間の生命、あるいは文化・文明も、そうした自然のシスタム、その全体像の中で循環と再生、食物連鎖の一環にあると思いますが、日本社会では、ながく「死」の世界に触れてきた「部落文化」を、あってはならないものとしました。
しかし今日にあって、そうした部落文化の歴史と伝統を正当に評価し取り入れない限り、日本人社会の中で自然の循環構造に対応した人間の側の文化・文明の全体像を見出すことが困難と思うのです。
そしてまたその時、部落文化は、今日、再生可能技術や文化、循環社会の再生・回復をめざす私たちにとって、その未来につながる伝統知として、重要なキーワードになるのではないかと思うのです。
なお、近代になって部落共同体は「清め役」の仕事を失います。
1871年の賤民解放令は「自今(今より)穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共ニ平民同等トス」(カッコ内筆者)というものです。
ここにあるように、身分とともに職業が「解放」されたのですが、職業は「平民」への解放であり、部落共同体は失業します。
皮革産業の技術は簡単ではないのでしばらく部落共同体が維持しますが、やがて江戸時代からの政商がヨーロッパの技術と機械を導入し、政府と結合して軍事産業に成長します。
警察機関もヨーロッパを模倣し巡査を農民や町民から集めるのです。
しかも、社会一般にある差別は放置します。
このようにして近代の部落共同体は経済破綻しますが、政府高官は「貧乏なのは彼らが努力しないから」と一方的に言うだけで、就職差別や結婚差別などを解決しようとしなかったのです。
そうした状況の中で、部落共同体あるいはその諸個人は、これまでの伝統、技術、経験を基に、それを生かしながら屠畜、食肉の供給とその文化、あるいは清掃労働や廃品回収業などによって生計を立てて来ました。
そこでも再生文化の伝統知が生きつづけたと言えるでしょう。
―終―