人々を人々を支えた部落文化 (三回)

伝統芸能の原点

今年 (〇九) 三月、俳優で門付芸・放浪芸の調査でもよく知られる小沢昭一(敬称略)と私の二人で「部落の文化・伝統芸能の夕べ」という小さなシンポジュームを開いた。そこに「部落の伝統芸能」と私が呼んでいる門付芸(祝福芸)として、徳島の辻本一英さんたちが復活した「阿波デコ箱廻し」と、東京向島で毎年正月に門付けをしている浅草雑芸団による「春駒」が参加してくれた。

 

小沢昭一は一九六〇年代後半から七〇年代にかけて「道の芸」ともいえる民間の芸能者の聞き取りをし『日本の放浪芸』(白水社)や同名のCDなどにまとめた。

その中に江戸時代からの被差別者による専業的芸能といえる門付芸・祝福芸がある。当時絶えかけていた徳島の「阿波デコ箱廻し」、佐渡の「春駒」、山形県の「春田打ち」、周防「猿回し」などだ。私は一九八〇年代になって各地の被差別部落(以下部落とする。他の共同体は農山漁村町とする)のルポをしながら門付芸の調査・聞き取りを始めたが、多くの部落で小沢昭一の話がでたものだ。

『日本の放浪芸』では大衆演劇やストリップ、浪花節やバナナの叩き売り、薬売り、あるいはゴゼ歌や神楽などさまざまな分野の芸能が取り上げられている。
門付芸もそれらの一つである。そうした取り上げ方に特別不思議はないが、私はそこに新鮮さを感じていた。

門付芸の意味や芸としての「春駒」「万歳」「鳥追」などを本や辞典で見ると、多くの場合「零落した芸」とか「乞食芸」などと書かれており、日本の芸能史の一環としてみる視点は少なかった。
ごく最近になって少し変ってきた感じがあるものの「零落した芸」などという記述は江戸時代の門付芸人がほとんどキヨメ役であったための先入観や偏見だと私は思っている。

一方私は、各地の部落をルポしながら門付けを受ける側としての農村や町の人に「春駒」「大黒舞」などの記憶を尋ねた。
「乞食」「ホイト」と思っている人がいるものの「神さま」と思っている人が結構多いのに気づき、そこにある落差が気になって門付芸の全国的な調査・取材を始めたものだ。
その結果は『旅芸人のフォークロア』(拙書・農文協)にまとめたので参考にしていただきたい。

小沢昭一の視点には辞典などにある先入観や偏見がなくて、門付芸を民間のさまざまな芸能と並列してみているのがわかる。
そこに新鮮さを感じた。また門付芸・祝福芸が神観念を持っていることも見抜いていたのである。

その小沢昭一と直接話しができるチャンスだったので、彼が門付芸への偏見をもたなくなる原因などを聞いてみたかった。

土方鉄から学んだ

「今日は被差別の話をするんでしょう」

シンポジュウムが始まってすぐ小沢さんが切りだした。

「そうです。乞食とかホイトと言われた門付芸を、日本の伝統芸能の大切な一つと認識できるようにしたいんです」

「差別されても、なんと言われても、そこに行って芸をやりお金を貰ってくる。
そうした芸人魂が私は好きなんですね」

彼は俳優として、実際に演技をする立場で門付芸をみている。
そしてまた、門付芸が偏見をもたれ差別される逆境のなかにありながらも、芸を続ける被差別者の姿を、俳優・実技者が見習うべき、という考えも強くもってると思われる。

私は門付芸を見る「文化人」や農山漁村町の人の偏見を改めるきっかけをつくろうとしているが、小沢昭一は被差別者の生き方に関心を持っている。
そして、部落の歴史と日本の芸能の歴史が重なっていることを作家の土方鉄さんの本を読んで知り、「門付芸はこの国の芸能の原点だと思うようになりました」と話した。

俳優としての活躍が始まった若い頃、彼は「芸能とは何か、その原点にたどりつきたい」と思うようになり、いろいろ考え、模索していた。
そのようなとき、土方鉄の本にめぐりあい、本人にも直接会ったりして、門付芸の魅力と奥深さを知った。
そしてそのような経過の中で、芸能の原点が門付芸にあるのを認識するようになった。

そうした話をしてくれた。

潰れた芸の復活

小沢昭一は次のようにも言った。「差別があるから芸が生きるんですよ」と。
芸人として、あるいは何かの表現者として、そうした芸人魂が大切なのが伝わってくる。反骨精神ともいえるものだ。
それは普通の生活者にとっても大切な精神でありエネルギーでもある。
しかし反面、偏見や差別が多くの門付芸を潰した例が多い。
そうした事例を挙げると、それは「芸人魂がなさすぎる」と言われるかも知れないが、部落差別には一人の覚悟だけでは片付かない側面がある。
門付芸をしているため、そしてそれが「物貰い」のように思われているため、子供や、兄弟親戚、村人までが蔑視され、仕事に就けないなどの例も少なくはない。

そのため村中で門付芸をやめた部落を私は見てきた。
それでも、門付芸はこの国の伝統芸能の原点であり、大切だと私も思う。
そのため芸を復活したい。
門付芸をやめた新潟県村上市の部落では、その村の門付芸・大黒舞を私が自分で見習い、偏見を克服し、的確な認識を持とうと、村の内外に語りかけたつもりだ。
そうしているうちに、最近その村に門付芸の保存会が生まれた。

こうした事例を話すと小沢昭一はすかさず「踊ってみせてよ」と、興味を示す。
やはり実技者なのだ。つたないながら踊ってみようか、と思ったが、音楽がなくても踊れるほど上手はない。どこでも踊れるよう練習しなくちゃ、と反省した。

私の大黒舞の話は別として、そうした復活の動きを喜んでくれた。そして、こうした事例の復活の過程で私が感じるのは「差別への反抗」を基礎にしながら、新しい認識として「門付芸がこの国の芸能の原点」という発想が自尊心やエネルギーとなり今も残る偏見や差別を克服する、そうした精神的武器になるのではないかということだ。

新しいエネルギーとして

シンポジュウムに参加してくれた「阿波デコ箱廻し」は江戸時代に徳島の農民が座敷芸・舞台芸として演じた「人形浄瑠璃」の系統にある。
門付芸では二つの箱に人形を入れて道を行き、民家の門口などで演じる。人形は三番叟(千歳・翁・三番叟)の三体と、えべっさん(エビス)がある。

浅草雑芸団の「春駒」は手に馬の頭部の木偶を持つ「手駒」と言われる門付芸。新潟県上越市で演じられるものを伝承した(本紙○年○号参照)。手駒は「蚕の神」として迎えられた。