解放新聞連載3

「殺生禁断」での皮革の徴税は「社会的絶対矛盾」であり「差別構造」を生んだ

第四部 国家による天候支配が新しい形になる――その「虚像」と「実像」

 原始、古代の諸国では、王や君主によるシャーマンとしての「雨乞」など天候支配が行われた。十九世紀のイギリスの人類学者ジームス・フレイザーは、その在り方を、世界的データーを集め分類、分析した。その中の一つの事例「旱魃」と、それを防ぐ人工的な「雨乞」の例では「自然に対する王の威力は、人民や奴隷に対する威力と同じように(略)旱魃、飢饉、疫病、あるいは暴風雨などが襲ってきた場合には(略)王の怠慢や罪悪のせいだとして、笞(むち)刑や縲紲(るいせつ・牢に入れる)をもって罰を加え、それでも因業に心を改めぬ場合には王位を剥奪して弑殺(しさつ)するのであった」(『金枝篇 ?』岩波文庫)と書く。権力を持つ王・君主が「天候支配」しようとし、それに失敗したら民衆が王を殺す場合もあったとする。日本では民衆によるこれほど厳しい事例は見られないが、日本の天皇も仏教の「不殺生戒」その政治用語としての「殺生禁断」「肉食禁止」を取り込んで「天候支配」しようとした。それは奈良時代が一つの典型だった。
七二二年・元正天皇は「この頃、陰陽が乱れ、災害や旱魃がしきりにある。(略)路上にある骨や腐った肉を土中に埋め、飲酒を禁じ、屠殺をやめさせ」とした。(『続日本紀 上』講談社学術文庫)。

 聖武天皇は国分寺と国分尼寺を全国に建立して仏教を重んじながら「死屍(しし)の骨や肉を土に埋め、飲酒を禁じ、屠殺を止めさせるべきである」とし、同じ禁令を七三七年、七四一年、七四九年と四度出した(『新訂増補 国史大系[普及版]類聚三代格 後編・弘仁格抄』吉川弘文館・「類聚三代格・巻十九」)。
七七〇年の光仁天皇は具体的な経典を指定するのが特徴で「『大般若経』を転読させよ」と命じる。しかし『大般若経』は長大な経典で、その中に先にみた「仁王経」が入っていて、る。そこでは仏教の戒律を守らないと「七難」が起るとし「六難」までが「天変地異」であり、それを防ぐため「善行」を重ね『大般若経』の転読(ところどころ読む)を発令する。

 もっとも、現代科学の常識では、大雨情報、台風コースの予報は盛んに行われるが、そのコースを人が変えたり雨量を変えることはできないのであり、古代の天皇の天候支配の場合も、偶然に雨が降ることがあっても、実質的効果はまったくはなかった。

 そうした状況下、大きな都市部を除けば民衆は皆農耕生活をしているのであって、雨の降らない旱魃などは死活問題であり、何かの手を打つ。科学的経験の少ない時代、そんな時思いつくのは過去の経験であり、記憶であり、かって盛んに行った動物供儀、例えば皇極天皇期の「屠者=祝部(ホフリ・ハフリ)=神官」による「殺牛馬雨乞」などだった。「殺生禁断」による天候支配が盛んだった中世、近世にあっても、仏教的儀礼をいくら行っても効果がないとき、最後の手段として民衆は過去の記憶を取り戻し、動物供儀、「殺牛馬雨乞」を行った。そしてその時、佛教の戒律を破り「悪」を行う人=「供儀」「殺牛「殺馬」を行う人は、いろいろな身分的制役も含め、そのような社会的役務を持つ人だった。ずっと後、明治時代に「打毀し」になった私の家の「屠牛の醜業」と同じであったしいえる。

第五部 検非違使の「穢の実検・排除」を「代行」する人

 奈良時代の「殺生禁断」による天候支配がほとんど効果がないので、平安時代になって天皇を中心とする神仏習合政治はその形式を変えることにした。「殺生禁断」「肉食禁止」は変わらないが、もう一歩踏み込んでその現場にある「穢」を排除する形式である。

 旱魃や台風など天候異変が起こるのは何かの「祟り」と考えることとし、朝廷の神祇官と陰陽寮が占って祟りの原因がわかると、その地域、該当する神社などに天皇が「謝幣」(謝罪の幣帛)する。そしてその「祟」の中に「穢」があるのがわかると、その現場に天皇直属のキヨメ役=危機管理機関である検非違使が駆けつけて「穢」を確認、それを排除する制度である(『平安時代の神社と祭祀』二十二社研究会編・図書刊行会)。この制度を検非違使の「穢の実検・排除」という。そしてこの場合の「穢」とは、「動物の死体・殺生」だけでなく「死人」「葬儀」「他の動物の死体」「骸骨」「怪我人」などが発生することだった(前掲書)。

 この検非違使の「穢の実検・排除」については、中世史家・丹生谷哲一による『検非違使―中世のケガレと権力』(平凡社)に詳しいので参考にする。
丹生谷はこの中で天候異変――彼はそれを<霖雨=長雨・川元>として捉える――を止める儀礼の歴史的経過と、検非違使が「実検・排除」した具体的例を五十件、表にまとめている。その一部は次のようだ。「寛仁2(一〇一七年) 霖雨。近京諸社に検非違使を遣わし実検せしむ」「太治2(一一二七年) 霖雨。伊勢・平野・稲荷・祇園・北野社中の不浄をたずね検非違使をして骸骨を掃除せしむ」。ここでは検非違使が自ら「骸骨」を掃除している。
しかしその後は、「排除」の様子が変わってくる。表にまとめたものなので細かいことは記述されてないが、表の範囲ではこの後「河原者」「犬神人」「カタイ(ハンセン病者・川元)」「非人」に「掃除」「型付」、つまり「穢の排除」をさせる事例が目立つ。「仁平4(一一五四年) 清目=河原法師に死人を片付けさせる」(『検非違使―中世のケガレと権力』丹生谷・平凡社)。これらは検非違使の「穢の実験・排除」の形式に変化があったのを示しており、この後同じ事が続くので、本論ではこの一一五四年(仁平4)を「検非違使の職務が官職外の者の「代行」に代わる初期と考える(棒線川元)。

 事例としてはもっとあるが、最小限これらの史料・記録をみても、新しい「形式」としての検非違使の「実検・排除」の、その現場で何が起こっているかその「変化」の実態がわかるのである。この後も「死鹿を非人」「清目=河原法師に死人を型付けさせる」などが続く。そして、丹生谷はこれらの事例をまとめて「やがて、かかる死穢処理者として身分的に位置づけられるようになったのが()河原法師・清目・非人・カタイ・犬神人・散所であった」(前掲書・棒線川元)というのである。つまり江戸時代を典型とした部落差別の始まりである。しかもそれは国家機関が「穢忌」して、「官人」とは関係のない者に「代行」させる形で始まる。つまり国家機関である検非違使が、「穢忌・触絵」を避けて、つまりそこから逃げて、国家基幹に関係のない者にそれを「代行」させ、「排除」の対象にした。これが部落差別の「原因」なのである。
国民はもちろん、国家機関にある者はこの歴史、そこにあった「一方的・独善的価値観をよく理解し、その解消を一日も早く達成すべきものである。