生活の危機管理―江戸時代の警察

人々を支えた部落文化 (四回)
川元祥一

 

生活の危機管理―江戸時代の警察

《開港地横浜を警備したキヨメ役の隊列と器具。道案内は百姓。『神奈川県史 資料編?近世⑦』》

現代、私たちが普通の生活において安全や安心を感じ、それを守るのは主に警察であり、その現場で働く巡査だ。江戸時代にこの巡査と同じ仕事をしていたのがキヨメ役、身分的に穢多・非人と呼ばれた人だった。江戸時代だけでなく、日本(和人社会・以下同)社会で警察制度が始めて成文化された古代検非違使の時代から現場で働く人は「放免」「下部」とか「非人」と呼ばれた。つまりこの国の警察制度の現場は、古代から明治維新まで社会的階層として下層の人が働いた。

明治時代にアメリカやフランスの警察制度を真似ることで、そうした歴史がなくなった。江戸時代のキヨメ役が身分的専業とした仕事が一方的に打切られ、部落は収入源を失い、経済的破綻・生活困窮におちいる(拙書『部落差別を克服する思想』解放出版社)。
現代、警察・巡査といえば決して蔑まれる仕事ではないし、社会的評価が低いとはいえない。そうした現代からすると、歴史の中でなぜ差別され、身分的に低いとされたのか疑問がおこる。そしてそこに、この国独特の社会構造としての政治・宗教的イデオロギーがある。そのイデオロギーが部落差別をも形成してきた。そうしたイデオロギー全体は拙稿『部落差別の謎を解く』(モナド新書・にんげん出版)をみてもらいたい。本稿は危機管理機構として警察制度に絞ってみる。

この国では古くから「あるべき秩序に反しているとみなされるもの」を「ケガレ」とする観念・イデオロギーがあった(『検非違使』丹生谷哲一)。例えば天皇制祭祀として古代から唱える祝詞では「罪・穢を祓え清め」という。「罪・穢」をキヨメの対象にしているのがわかる。民俗学ではこの両者をケガレとしている。とはいえ現実に罪・ケガレが起こった時、祝詞を唱える天皇が犯罪者を捕まえに行った話しはない。このとき現場で働いた人が「放免」「下部」「非人」であり、その人をキヨメと呼んだ(前掲書)。
このような観念・イデオロギーが江戸時代の職業観に続き、穢多・非人身分の仕事となった。私がこれらの仕事と労働者を「キヨメ役」と呼ぶ理由はここにある。

さす又(また)と駄菓子屋

部落の歴史を全国的にみると警備役や行刑役など、今の警察と同じ仕事をした例が多い。江戸・東京では弾左衛門が幕府と交わした「役目」に示される。「御尋もの御用、在辺に限らず申し付けられ次第相勤め候」「御仕置物一軒御役相勤候」(『近世被差別部落関係法令集』明石書店)などだ。これは江戸町奉行支配の一環だった。

徳川幕府が倒れた明治元年、町奉行所が廃止され「市制裁判所」に変わる。これが近代最初の警察機関だった。弾左衛門の「役目」=仕事は、四年後の解放令まで、この近代最初の警察機関の支配下に移る。
こうした流れからも、江戸時代の警察・巡査をキヨメ役が担ったのがわかる。今の監獄の看守にあたる牢番役も各地にあり「番の穢多酒を呑むべからず」(『日本の警察』警察制度調査会)などの定めがあった。
犯人を追跡し逮捕するために捕物道具を常備し、それを扱う武術の訓練もした。私の家の鴨居にも掛けられていた。

《捕物道具・鳶口と鉄砲 兵庫県》

子供のころそれが何を意味するかわからず、遊び道具にして壊したのを後悔している。その中に槍や六尺棒、さす又などがあった。さす又は六尺棒の先端に半円形の金具をつけたもの。この半円形で犯人の首を押え動けなくする。このさす又が現代、人の胴体を押える大きな半円形となって学校や企業に常備される。凶悪犯人の胴を押さえ動けなくする。このような道具や文化が部落文化の伝統の中にある。


《弘前市の部落には警備役の神社として「追掛稲荷大明神」が祭られる》

もう一つわかりやすいのは、街角の駄菓子屋だ。最近はあまり見られなくなったが、私が東京に来た六〇年代は街角で駄菓子屋をよく見かけた。その頃見た駄菓子屋がすべて部落史に繋がるかどうかわからないが、江戸時代の、江戸町内の駄菓子屋は木戸番役や「番非人」の生活手段・生業だった。町奉行が許可した木戸番の代償というべきものだ。
江戸町内には三種の番人がいた。武家屋敷の辻番、商家の自身番、町の堺ごとにある木戸を警備し、町の雑用もした木戸番だ。このうち木戸番が「番非人」の仕事だった。

辻番は主に武家、自身番は商家がそれぞれ責任をもったが、木戸番は公義として奉行、弾左衛門支配だった。「番太」とも呼ばれ「草鞋・蝋燭・駄菓子などを売ることが番人の内職として許されていた」(『番人制度』都史紀要二十二)。これが近代に残った町角の駄菓子屋だ。今もたまに見るなつかしい駄菓子屋は、職業として部落文化を原点にする。

《駄菓子屋のある風景》

自治の理想像と反省点

日本社会での生活の危機管理、警察制度の一端をみたが、こうした形態が明治政府の欧米模倣によって一方的に廃止され、部落のみならず一般民衆も自覚がないまま新しい国家警察がうまれた。そのため日本人の生活の危機管理が他人任せになったと私は思う。そして、これが近代の国家主義、軍国主義を増長させた原因の一つと考える。
こうした傾向を克服し、民衆による自治的な危機管理を自覚的に考えなくてはならない。そしてそのために、これまであった政治的・宗教的イデオロギーとしての差別観を反省し、克服しなくてはならない。

そのうえで、江戸の町を例に考えると「辻番」「自身番」「木戸番」が、それぞれ仕事の特徴を生かしながら、全体で町の安全を守った姿が描ける。そしてここから、権力機関としての危機管理でなく、地域住民の自覚的参加を促す理想像を描くことができるだろう。
とはいえ、そうした理想像のため具体的に克服しなくてはならない歴史が二つある。

各地の部落史が示すとおり、キヨメ役が差別されていたとはいえ、その仕事は国や藩を背景にした権力機関の一環だった。そのためキヨメ役は農民一揆などで権力側に立ち一揆を取り締まる例が結構ある(『近世関東の被差別部落』明石書店)。これが「差別分断」の典型とされてきたのであるが、こうした歴史を差別・被差別の両者が克服しなくてはならない。

そしてまた、それを克服した例も結構ある。前掲書は「封建的権力の最末端におかれ、その側に立って警察的警備役を担当した番非人層が、むしろ反権力的方面に向っていった」とし、天保期の甲斐国(山梨県)を挙げる。甲斐の農民一揆で「非人等まで手足達者のものあい加わり」と書かれた例などだ。ここに差別分断を克服する民衆の歴史がある。

もう一つ反省する事例がある。私たちは近代になって地域の「自警団」の経験をもつ。関東大震災直後、在日韓国・朝鮮人への差別によって「自警団」が結成され、実際に数千人(約7000人と推定される)の在日を殺害したのだ。こうした身近な歴史を反省しなくてはならない。その反省からすると、偏見・排外・差別による自治はありえないことが学べるはずだ。こうしたプロセスを経て部落史を共有することで、私たちは多文化・多民族共存の自治と地域社会を目の当たりに描くことが出来ると考える。

 

新著『部落文化・文明』より