この国家の怠慢は許せない!怠慢にもほどがある。
六世紀末に始まったと考えられる神仏習合政治の中で、国家・天皇が思想的に最も大切にしたのが「護国三部経」(「金光明経」「仁王般若波羅蜜経」「法華経」)であり、中でも重視されたのが「金光明経」だった。後に全国に建立された国分寺の全てに配布され、国家的経典とされたものだ。この「金光明経」には十の戒律があり、大意は普通の家庭で子供に注意する「他人の物を盗むな」「嘘を言うな」などであるが、その中に世界的普遍性を欠くものとして、家畜を殺したり肉を食べてはならないとする「不殺生戒」(政治用語として「殺生禁断」)があり、この戒律の細かい解説が「金光明経最終巻」にあると書かれているが、なぜかそこにはなく、別の経典「一切経」に最終巻が載っているのである(本文参照)。そこでは、「殺生」が基本的に家畜に絞られるが、その「肉を食べる」ことも禁じられ、「殺生」「肉食」の両者は「救のない」「悪」であるとされている。このような思想は、世界中どこにでもある肉食の習慣からして仏教の独善的価値観と私は批判しているが―。そうした様子で導入された仏教であるが、我が国で初めて「殺生禁断」「肉食禁止」を詔として発令したのは六七五年・天武天皇だった。内容はこれも本文を見てもらいたいが、「金光明経最終巻」に酷似している。この禁令の主なところを言うと「殺生禁断」の対象が日本の家畜「牛・馬・犬・猿・鶏を殺し、その肉を食べてはならぬ。それ以外は禁制に触れない」などだ(『日本書紀 下』宇治谷孟訳・講談社学術文庫)。禁令の最後にある「それ以外」とは、当時盛んだった貴族、武士の「鹿狩」「猪狩」が考慮されたと考えられる。この禁令が、「金光明経最終編」に極似しているのは明白で、天武は先の禁令を詔する直前「一切経」の写経を命じており、発令直後に各地の国司、寺院等に「一切経」を保持するよう命じている(『日本書紀 下』前掲)。もっとも、この時点で、この禁令が「天候支配」「自然支配」に利用されるかどうか明確でないが、この後、奈良時代の諸天皇は、この禁令を用いて天候異変の防御として「殺生禁断」「肉食禁止」を次々詔する。
例えば、七二二年元正天皇は「この頃、陰陽が乱れ、災害や旱魃がしきりにある(略)恵みの雨は降らず、人民は業を失う。(略)飲酒を禁じ、屠殺をやめさせ」(『続日本紀 上』講談社学術文庫)だ。仏教を重んじ国分寺を建立した聖武天皇は七三七年を始めとして三度も「殺生禁断」を詔している。世界的傾向として、原始、古代、中世までは、天変地異、天候異変を防ぐため諸国の王やシャーマンが乗り出し、自然支配しようとした事がジームズ・フレイザーの『金枝篇』などに詳しく書かれているが、日本の天皇もその役目を自覚していたようだ。平安時代になると天候異変は何かの「祟」と考え、天皇直属の警察機関として生まれた「検非違使」が「祟」の中の「穢(死体や葬儀)・殺生」などを調査。それらがあればそれを掃除・キヨメる型になった。しかし実際になると、「穢に触れた者も穢」とする規定が「延喜式」で決まっており、検非違使が穢れると天皇も穢れるとしてこの制度が変質する。検非違使がやるべき「穢の実験・キヨメ」を天皇から最も遠い存在の、例えば「賤業者」(「河原者(屠者)」「ハンセン病者」など)に「実検・キヨメ」の「代行」を行わせたのである。このような社会の実態を反映して、中世の象徴的辞典といえる『塵袋』の表現「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞ゾ」が書かれたと考えられる。こうした実態を背景に社会に「穢をキヨメル」仕事が定着し、「被差別者」が固定的に広がり、民衆の認識も「延喜式」を背景にそこに固定する。その現象が「部落差別の原点・端緒」が社会に広がっていく「部落差別の原因」と私は考える。
こうした国家権力の一方的独断、「殺生」「肉食」をー悪」とする独善性が拡大することで「部落差別」が生まれるのであるが、こうした「国家の天候支配」が終ったのは明治八年(一八七五年)、イギリスの天文学者を招いて科学的な東京気象台が作られた時である(『古川武彦著 気象庁物語』中公新書)。
こうした歴史を見ると、これまで日本の国家が行った「天候支配」「自然支配」の思想がが間違いだったのを、気象台を作ることで充分乱式出来たはずである。しかもそれは単なる技術の改革だけでなく、それまで「殺生禁断」を言いながら国家は兵具、馬具などの原材料として「皮革」を税金として徴収していたのであり、そのため誰かが「殺生」を続けたのは明らかだ。それは誰だったのか――。その時「悪人」として「差別」され、今も差別されているのは誰なのか国家は知っていたはずである。しかし国家は、千年に及ぶこの歴史を反省しようともせず。国民に知らせようともしなかった。そのため国民は「部落差別」が何なのか、なぜそうなのか知ることもなくも、つまり意味も分からず根深い「部落差別」をつづけ、今もが残った。
こうした歴史を持つ「部落差別」を解消し、人々の対等な生活を取り戻すには、その原因の全てを国民に表明し、一千年にわたって続いた国家の、非合理で独善的な「天候支配」の思想を反省し、その差別の思想の犠牲になった「被差別者」の救済と、このようなことが二度と繰り返されないため、思想的、法的根拠を打ち立てるべきである。
新版 ―部落差別の原因を探して――
日本各地に残る伝統的な文化、特に農山漁村の、そこで人々が働く現場や、その周辺で彼ら自身がほぼ定期的に行う伝統的な祭礼、あるいは儀式などでは、大規模なものは結構残っているとはいえ、一つの村、一つの郷くらいで行っている小規模なものはだんだん薄れて、消滅しつつある。人間は次々と新しい文明を開発する習性があるのでやむを得ないとも言えるが、やりすぎた開発があって、地球環境の危機も庶民の目に見え始めている。そんな中、農山漁村の自然、そこに人間を育てる食物や、あるいは生命力があるのに気付き、それを「神」として崇める祭礼、儀式が日本各地に残る伝統的な文化であるのを知り、実際それがどのように表現されているのかを調べ、見て歩こうとするのが、若いころからの私の関心だった。なぜなら、それらの祭礼、儀式には、その中心や、あるいは周辺の位置で被差別部落の人がかかわり、あるいはその人が居ないと成り立たないものがたくさん見られたからだ。彼らは〝神人〟〝ハフリ=祝〟〝キヨメ〟などとして登場する。しかし平常では差別されている。なぜなのか?。そこに部落差別の謎の答えがあると考えた。
その考えに間違いはなかった。しかし部落差別の「原点」「端緒」は仏教伝来(五世紀ころ)と、「神仏習合政治」が始まる六世紀後半から、仏教の戒律の影響を受けて、自然神を祀り、動物供儀も行った〝神人〟〝ハフリ=祝〟〝キヨメ〟が「排除」「差別」されるようになった。この状況の端緒は「日本書紀」などにたくさん書かれている。それに気付いた私は、「神仏習合政治」を支えた仏教の「護国三部経」(「金光明経」「仁王般若波羅蜜経」(以下「仁王経」)「法華経」)に何が書かれているかを手がかりに「部落差別の原因」を探り出してきた。10年ほどかかった。そしてやっと、2024年2月初めに「部落差別の原因」(三一書房)として発売されるので、今後は、この本を起点に、いろいろな議論を行っていきたいと思っている。
部落差別の原因|二月五日発売。
『部落差別の原因 ― 国家による天候支配の思想=仏教の「殺生禁断」』
川元祥一
定価:本体2,200円+税
四六判 ソフトカバー 240頁
ISBN978-4-380-24001-0 C0036
「殺生禁断」と「国家の天候支配」の関係
十九世紀イギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーは、世界の呪術を集約・分類しながら、原始、古代、もしくは中世の天候支配について次のように言う。
「社会の初期のある段階では、王や祭司は、自然の運行は多かれ少なかれ彼の支配に従うものと想像され、自然に対する王の威力は、人民や奴隷に対する威力と同じように、旱魃、飢饉、疫病、あるいは暴風雨などが襲ってきた場合には、人々はこのような災厄を彼らの王の怠慢や罪悪のせいだとして、笞刑や縲紲(牢に入れる)をもって罰を加え、それでも因業に心を改めぬ場合には王位を剥奪して弑殺(しさつ)するのであった」
(『金枝篇 ㈡』岩波文庫49頁)
フレイザーは、これは諸国の王が「天候支配」しようとしていた実例であると述べている。日本の天皇もこれをやろうとしたが、しかし日本では神仏習合政治の二面性によって、責任が曖昧になったと考えられる。
この日本の「天候支配」は、示した通り、千年以上前からの「神仏習合政治」の基、仏教の「殺生禁断」を守って天の「怒り」を静めようとした。だから、「殺生」「悪」となり、排除されるようになった。
これらの史料を当時の仏典を通して証明していく。