部落文明

 ―リサイクル装置(タブーからの再生)―川元祥一

 はじめに

 日本社会の中でいまだ解決していない問題といわれる部落問題。この問題の基本的構造が解けてきた。その構造の最終的帰結というべき概念は文明である。
つまり、江戸時代の身分構成のひとつである穢多身分・非人身分と、それらの歴史を前提とした現代の部落(被差別部落とか同和地区と呼ばれる地域。一般的村落は農村、漁村、山村と呼び別ける)は、制度的意図とは別に本来文明的存在であり、それは「文明的装置」として各地に存在した。私はこの「文明的装置」を部落文明と呼ぶ。そして、このような認識を持つことで、未解決な部分が多かった部落問題を解く糸口が見つかるし、日本文化、あるいは文明の、これまで気づかなかった基層を発見する糸口になるだろう。
なを、部落問題はアイヌ社会、沖縄社会にはない。したがって部落文明は和人社会に特定されるものであるが、和人に特定された文化・文明論が十分展開されているとはいえないので、ここではその特定を前提に日本文化・文明という概念を用いる。

一、部落問題とは何か

 部落問題はこれまで差別の歴史と現状が大きな課題になっていた。特に結婚差別は今も根強いものを持っている。一九九三年に行われた政府(総務庁)調査では、子供の結婚における親の態度として、相手が部落民(部落・同和地区出身)であった場合「絶対にさせない」が五%、親戚などの「反対があればさせない」が七・七%である。この数字を楽観的に見る人もいるが、現代にあってもなを十三%近い人が結婚差別をすることを表明するのは、私には驚きだ。また、「意志が強ければ仕方ない」が四十一%である。これは非常に曖昧な姿勢だ。その結婚に、親として好感を持たない、と考えることが出来るし、結婚に反対するケースも起り得るだろう。差別克服を啓発してきた教師が自分の子供の結婚になると密かに反対するといった事例もけっして少なくないのが現状である。
こうした根強い差別に対して当然、告発・抗議の運動が起こる。また、長いあいだの差別によって生まれた周辺社会との生活上の格差是正運動も起る。とはいえ、そのような差別がなぜ起るか、心理的、あるいは文化的な素因は必ずしも明確でない。また部落形成史、起源論もさまざまに論争されているとはいえ定説がない。
一方、日本社会の総体の中で、部落問題は極少数者の問題というイメージが強い。部落は全国で約六〇〇〇部落、三〇〇万人と言われる。この数字は少数者を示しているものの、差別は部落の外にある圧倒的多数者から発生する。その意味で、少なくと差別の発生は日本人の多数者のあいだの問題であるが、そうした視点で考察されたことはほとんどない。この問題を歴史的に見るとタブー化されており、無意識的ではあるが現代もその傾向がつづいていると思われる。また日本の近代化の中で欧米模倣の特質があり、そこでは見えない問題となり、根拠もなく「解決した」と思っている人が結構多くて、歴史的なタブーを克服するチャンスを失っている。
こうした歴史と現状のなかで、部落問題にはもう一つの印象が生れている。ネガティブな問題という印象である。あるいは一定の人がこうむった「暗くて気の毒」な問題、という印象だ。
しかし部落問題は本来ネガティブなものばかりではない。差別だけ見ているとネガテイブなところがあるものの、差別が一定のタブーから発生し、その差別が大多数の日本人の間から発生することを考えると、この問題の解決は大多数の日本人のタブーを破る積極性を持つだろう。
しかも部落問題は差別だけで成り立っているわけではない。そのことを証明するために少し歴史を振り返る。
江戸時代に、主に幕府直轄地の穢多頭として穢多・非人身分を支配した弾左衛門はその地域において社会的役割を持っており、社会的機能を果たした。享保年間(一七一六~一七三六)弾左衛門が徳川幕府に提出した「御役目相勤候覚」がその役割を証明する代表的な史料だ。
そこに書かれた主な役割(役目)は「一、皮類御用之節、何ニ而茂差上相勤候(皮類ご用の節は、何にても差上げあい勤め申し候)。一、御尋者御用、在辺ニ不限被、仰付次第相勤申候(お尋者捜査は、周辺に限らず、仰せつけられしだいあい勤め申し候)」など十一項目に及ぶ。(『江戸社会と弾左衛門』中尾健次著)。
この史料を論評した大阪教育大学の中尾健次は弾左衛門の役割(役目)を分類して「皮革生産」と、仕置・断罪を含めた「下級警察業務」、そして「関八州(幕府直轄地の穢多・非人)支配」とする。
この役割は江戸時代の各身分が公的に担った「役」に相当し、「御用」とか「公用」と呼ばれる。弾左衛門の直接的支配下のみならず、全国に点在する穢多・非人はそれぞれの藩、あるいは地域で同じ役割を担った。地域では「水番」「幣牛馬処理」「皮細工」「警備」など具体的に呼ばれた。また、弾左衛門の役割(役目)に書かれてなくて配下の者が各地で行った役割として、神社や仏閣における「浄め」「掃除」がある。これは境内、あるいは祭礼の場の警護と先導・露払役と、具体性と抽象的性を含めてその場のケガレを浄め「聖」なる時空を成立させる儀礼的役である。こうした儀礼性を含め、私は江戸時代の穢多・非人の社会的役割の総体を①警察機構。②具体的ケガレの浄め。③抽象的ケガレの浄め、の三つだったと考える。
ここにある役割は人々の生活にとって不可欠な社会的機能である。部落史にあるこの機能を私は部落と周辺社会との関係性とする。部落問題というのは排除作用としての差別と、ここにある関係性の両方をみる必要がある。両方を総合的にみて初めて部落の歴史的存在意義が理解出来るし、文明的存在であることが理解出来る。また、部落差別の原理の基本的構造も解けるし、それは同時に日本文化、文明に新しい視点を加えることになる。

 二、ケガレと忌避(タブー)

 部落が歴史的に果たした社会的役割を考える時ケガレの概念が重要な意味をもってくる。また、すでに度々指摘されていることであるが、差別を考える時もこの概念が重要な意味を持つ。そこでケガレの概念を概観し、部落問題との関連をみる。
ケガレの概念は古事記、日本書紀の時代から日本人の文化、あるいは生活規範の中で重要な意味をもっていたが、しっかりした概念規定がなくて、曖昧なままだ。この曖昧さの原因は、部落問題にみられる歴史的なタブーと、日本近代の欧米を模倣した特質を反映しているだろう。
曖昧さを残しながらも文化人類学者・波平恵美子のケガレの分類が比較的まとまったものと思うので参考にする。彼女はケガレを「特殊で異常なもの。不浄・穢れたもの。邪悪・罪。不幸・不運(死・病気・怪我・災難など)。神聖(広義)」とする。(『ケガレの構造』)。ケガレの分類に「穢れたもの」を入れる曖昧さがあるものの、おおむね妥当な分類だ。
なを波平の「特殊で異常なもの」に少し含まれているのであるが、各地の神社や、天皇が行う歴史的な祭祀で、主に稲作を妨害する天変地異をケガレとし、それを防ぐために前もって「祓え清め」の祭祀を行う。神奈川大学の山本幸司はこの祭祀(大祓・祓の儀礼)について「国土全体の安全と自然の循環を確保するための儀礼」(『穢と大祓』)とする。こうした祭祀的概念を含めて私はケガレを①天変地異。②人や動物の死・病気・怪我・出血。③規範破り、の三つに分類する。
ケガレを以上のように概観することが出来る。日本の歴史の中では、多くの場合これらのケガレを避けることに文化的・制度的価値がおかれ、それらに触れるのを避けるタブーを形成した。しかし江戸時代の穢多・非人は「役」としてこれらに触れた。先にみた部落の歴史的役割がすべてケガレの概念に対応していることからそれが分かる。
ここにきて初めて部落が「文明的装置」であるのを理解する入り口に立つ。同時にこれは部落差別の観念的原理を解く糸口であり、多くの日本人が歴史的にタブーとしてきた世界・文化的要素を解く新しい作業の糸口でもある。

 三、ケガレに触れた文明

 文明とは、自然に対して人間が作りだした「装置群と制度群をふくんだ人間の生活全体、あるいは生活システムの全体」(『近代世界における日本文明』梅棹忠夫)とするのが妥当と考える。梅棹忠夫はさらに、自立して循環する自然の生態系=エコシステムに対する人間の側の文明系という構図を描きだす。
ここでいう生態系はさまざまな分類を可能とするが、最も簡略なものとして、自然が人間に賦与する生産的な部分と反対の破壊的な部分に別けることが出来る。そして、人間は生産的な部分を農耕、狩猟、採取、漁業として文明系に活用した。一方破壊的な部分はどうだろうか。この部分をカオス的ということが出来るが、人類はこの部分に触れ、挑戦することで科学、哲学、芸術を生み、新しい文明を築いた。
これを日本の歴史、とりわけ部落史に当てたらどうだろうか。カオスとケガレは必ずしも同じでないが、ケガレの概念がカオスの範疇にあることは認められるだろう。だとすると、この日本でケガレに触れてきた部落が一定の文明を生んだことが理解出来る。
これは仮説ではない。部落が歴史的に担った社会的役割=機能が実証している。典型的なのは「具体的ケガレの浄め」として行われた幣牛馬処理やそこから生まれる皮細工だ。自然の破壊的な部分としての動物の死に直接対応し、それを人間の側の文明系として皮革製品や薬品、装飾品などに作り変える。
警察機構や神社・仏閣の浄めは直接自然に触れていないが、カオス的状況に対応した文明系であり、文明的装置であるのはあらためて論証する必要はないだろう。むしろ部落の歴史が警察機構を担ったのを実証した方がよいかも知れない。とはいえこれは日本の警察史で常識的だ。古代の検非違使の時代から、犯罪などに対応する危機管理の現場は当時の「非人」が担当した。その伝統が江戸時代に続いた。犯罪や天変地異をケガレとしたからである。
神社・仏閣の浄めは、具体的ケガレの浄めと警察機構を合わせたものであり、同時にそのことで抽象的な「聖」なる時空を成立させている。これは日本の神道的祭祀の基層と考えられる。これも文明的装置である。
一方、部落差別の観念的原理の解明もケガレに触れる役割から可能だ。ケガレをタブーとして忌避する観念や文化、社会的制度は世界史にあるが、日本では「延喜式」の時代(九二七年)にそれが朝廷を中心とした貴族社会の制度となり、やがて中世頃に一般社会の規範・制度となったと考えられている。このタブーを「忌穢」という。しかし「忌穢」だけでは部落差別にならない。「忌穢」はケガレの事象を避けるだけだ。「忌穢」に一定の人の全存在が加えられるのは、もう一つの観念が必要だ。ケガレに触れるとその人もケガレるとする「触穢意識」である。「触穢意識」によってケガレに触れた人もケガレと同じ「忌穢」の対象となる。これも延喜式で制度化され、中世頃に一般化したと考えられている。この二つの観念の連合が部落差別の原理である。なを「触穢意識」はジェームズ・フレイザーが世界中の呪術から抽出した感染呪術(感染の法則)の範疇にあるだろう。

 四、リサイクル装置ー浄めにみる除去と再生ー

 次に、ケガレに触れながら作られた文明が日本社会のなかでどのような文化的、精神的特性を持つかみてゆく。
日本史の中でケガレに対応する作業や仕事、あるいは文化を「浄め」という。国家祭祀や神社で唱える「祓え清め」と同質である。ただ、国家祭祀や神社は具体的ケガレに対応するのでなく、その国や地域がケガレに犯されないよう予め前もって祈る宗教的浄めである。これを「予祝」という。(江戸時代の非人身分と雑種賤民はこの予祝儀礼を民間で祝福芸とした)。このような浄めでは、具体的ケガレを前提にした時も、それを除去することでしかない。(『日本国語大辞典』)。しかも神官や天皇が直接触れて除去するのではない。その除去を歴史的に賤民階層が行った。
そうした歴史を部落の歴史が継ぐが、その場合は対象が具体的であるがためにただの除去に終らない。対応したケガレの全てに質的変化をもたらし文明系として再生する。幣牛馬処理や皮細工がその典型だ。 犯罪者を追捕するのもその一環といえる。祭祀において「聖」なる時空を成立させるのも精神的・抽象的「再生」の儀式的基層だ。民俗学ではこれを、ケガレをケ(日常)に変転・再生する儀式とし、ハレの儀式という。このハレの儀式を神道で「清め」という。
以上のような意味で部落の歴史にある社会的役割の総体を「浄め役」と呼ぶことが出来る。十三世紀の風俗辞典とされる『塵袋』に「キヨメをエタというは何なる詞ぞ」とあることから、穢多は本来キヨメと呼ばれていたことも分かる。(『復刻日本古典全集』)
このことから、部落は歴史的にケガレを浄める文明系の装置、つまり「浄めの装置」として全国に点在したといえる。いうまでもなく現代的認識である。これを「部落文明」と呼ぶべきと思うが、これだけではその特質を言ったことにならない。神道的祭祀もまた「清めの装置」として存在するからだ。これとの違いは何だろうか。
両者の違いはすでに明確だ。神道における国家祭祀や神社の祭祀は具体的ケガレに触れない。むしろ天皇や神官はケガレに触れてはならない。これを「宗教的清め」と呼ぶことが出来る。これに対して部落は具体的ケガレに触れ、それを処理・再生している。 最初は部落の浄めも「宗教的清め」として始まったかも知れない。しかし結果として具体的ケガレを質的に変化させ、文明系としての道具、装置を作りだしている。これを私は「宗教的清め」と区別し、文明的「リサイクル装置」と呼びたい。これが部落文明の特質である。

 五、価値=文化を作った部落

 「リサイクル装置」の具体例を見る。一つは幣牛馬処理だ。牛馬はかって動力として農村、山村などで飼育されていた。これが怪我・病気・死によって動力として活用できなくなった時処理した。この処理はケガレに触れるため、浄め役(穢多・非人)の仕事だった。怪我や病気を治すのも浄め役の仕事であった地域(兵庫県宍粟郡など)もある。(『わが部落の歴史』稲田耕一)。
死んだ牛馬は放っておけば姿を変えて自然に返る。これが生態系=エコシステムだ。部落はそれを文明系に再生する。かって一頭の牛がどのように再生されたか例をあげる。骨や爪は算盤の桁、櫛、装飾品など。毛や尾は製紙(和紙)用すのこ、筆。脂肪は蝋燭材、油。血液や内臓は薬品。毛皮は太鼓、防寒具など。骨と皮は煮詰めて膠にする。
寺や神社に残る日本画は膠を接着材に使っているため保存出来る。西洋の油絵に匹敵する。しかし近代の日本人は「膠絵」の歴史をほとんど知らない。これは日本人の精神史にとって悲劇的ではないか。
牛の皮を使った和太鼓は今でもほとんど部落で作られる。またその演奏は国際的に好評だ。勿論演奏者の能力が貢献しているが、和太鼓だから出る音がある。その特徴を部落の歴史と技術が作った。そしてそこに独自の文化があり価値がある。
ケガレに触れて作られた文明系をもう一つあげる。人体の解剖技術だ。江戸時代の医者・杉田玄白は「日本近代医学の父」と高く評価される。オランダから伝わった『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を著した業績だ。しかしこの翻訳は、部落の歴史と技術が不可欠だった。『ターヘル・アナトミア』の解剖図が正しいかどうか実証するため日本人の身体を解剖したのであるが、当時は解剖技術を穢多身分が持っていた。ケガレに触れる作業だからと推定出来る。その技術によつて『ターヘル・アナトミア』が正しいと分かり、翻訳の決意をした。一七七一年春である。杉田は後にそのことを『蘭学事始』に書き残す。「その日より前の腑分といへるは、えたに任せ、彼が某所をさして肺なりと教え、これは肝なり、腎なりと切り分け示せりとなり」(岩波文庫より)と書かれている。腑分けとは解剖のことである。
他の土地でも同じ現象が実証されつつあるが、江戸時代に穢多身分が解剖技術を持っていたことが分かる。残念ながら日本の文化はこれをきっかけに蘭学ブームとなり、近代の欧米模倣へと加速していき、足元にあった文化、技術を見失うのであるが、部落の歴史が大切な文明系を築き、文化を作ったことを実証するには十分な事例であろう。

 まとめ

 以上、ケガレに触れ、挑戦しながら作られた文明をいくつかの事例とともに見た。特に生態系=エコシステムに対する文明系としてみたとき部落文明が明確になる。同時にそれが日本文化、文明の新しい視点であり、内在的再構築の可能性を伺わせるものではないだろうか。