東京電力福島第一原発の事故の報道によって、原子力エネルギーが危険なのを知りながら原発建設を推進してきた研究者、専門家たちの思想レベルがわかってきた。
報道では原子炉の構造や技術、原発の機構などに焦点が注がれ勝ちで、それも事態の性質から仕方ないが、その建設に携わった人々の、あまり人目に触れない思想性や心理というものが、危険で複雑な文明装置である原発を建設するうえで、いかに決定的な意味をもっていたか、しかもそれが、装置の複雑さや事故の重大性に比べていかにも軽々しくあっけないものだったか、失望感とともに知ることになる。
そうした軽々しさを知るにつけ、かえってそうした思想性の重大性を痛感し、彼らに何が欠落していたのか、悔しい思いをもつとともに、本来あるべき思想、価値観を考える。
現代から未来に向けて、人類史に決定的な影響をもつと思われる原子力発電所であればなおのこと、その建設についてnoかyesかの分岐点にあるそうした思想性は、もう少し、人の良心や善意の輝き、精神性豊かなものとして未来に繋がるものであってほしいと痛感する昨今である。