かかし(案山子)の哲学

―アニミズムの発見と展開―

 川元祥一 『神奈川大学評論』(55・2006)より抜粋一、列島文化、半島文化、大陸文化  日本文化は北海道から沖縄までを範囲に日本人という概念を前提に語られるが、これを自然をキーワードにし て考えると、北海道の自然の中で育くまれたアイヌ文化、沖縄の自然の中で育くまれた沖縄文化、そしてその間 で本州という地域の自然を前に育くまれた和人文化が個性あるものとして大別できる。 しかもこれら三つをまとめて日本文化というのは、比較的近い時代において、かなり無理のある「同化」政策が 強行された結果でもある。それは近代になって天皇制文化を軸にした和人文化の押し付けであり、画一化であっ た。こうした一方的強行の傷跡は今も残っている。侮辱的で差別的であった「北海道旧土人保護法」が、アイヌ 民族の主張によってその独自性、文化の個性を認めた「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の 普及及び啓発に関する法律」(「アイヌ文化振興法」)に変わったのはほんの数年前、一九九七年である。  沖縄は日本軍国主義、帝国主義の犠牲を一身に背負わされた型で、今も米軍の基地が集中している。この状況の 中で文化的個性、独自性を残し楽しみながら、沖縄の独立を主張する意見が存在感を持つ昨今だ。こうした地域 の個性を認め、多文化・多民族主義による共存を実現するために、これまでのような国家による「同化」ではな く、ぞれぞれの地域の自然を前提に育くまれた文化を尊重し、改めて多文化共存の構想と哲学を持つ必要がある だろう。しかもそれは、人類的課題としての「自然と人の共生」に応える必要不可欠な第一歩といえる。  日本文化という概念にあるこうした歴史を反省し、多文化共存の未来を考えるため私はこれまでの日本文化を 「列島文化」と仮称し、アイヌ文化、沖縄文化、和人文化を個別の個性とし、それぞれの違いと共通性を認識し た発想を提案したい。

 自然をキーワードにした「列島文化」を措定すると、さらに隣国、あるいは私たちがそこで生活する東アジア が当然連続性をもって視野に入る。列島に続く半島文化、大陸文化だ。それぞれコーリアン文化、中国文化とい われるが、日本文化はこれらの国に対しても、植民地主義、侵略戦争をしかけ、文化的「同化」を押し付けた近 代史を持っている。ここでもその傷跡が今も残っている。これらは国家的な解決が必要と思うが、国家に責任を 負わせているだけでなく、私たち個人個人のレベルにあって、歴史を反省し、国家に頼らなくても出来る、ある いは国家とは別の新しい価値機軸として自然をキーワードにした文化を構築出来るのではないか。そんなことを 模索したいと考えている。  ともあれ私の第一歩として、私が生活してきた「和人文化」に焦点を当て、この歩みを始めることとする。

二、 自然を前に働く者の文化―「第一次文化」として―

 私たちの社会には、自然を前にして食料獲得(生産・採取・狩猟)する自分たちの姿を表現した文化、歌や踊 り、絵がたくさんある。これまでこれらは国や国家、和人社会で長年支配的位置にあって国家を代表してきた天 皇制の視点から見られ、天皇制の体系として把握されがちであったが、ここで挙げようとしているものは、国家 や天皇制とは関係なく、目前の自然に直面し、国家や天皇制の規制ではなく、自然の法則そのものによって発生 しているのがわかってくる。  自然を対象に生まれた文化といえばアイヌ文化のアニミズムがすぐ思い出される。鶴を神格化して優美な姿を 舞う「鶴の舞」。強い風に耐えて成長する松の木を模擬的に演じる「松の木」などなどだ。沖縄でも穀物の種を 神格化して蒔く表現の「マミードー」、鍛冶屋の模擬的表現としての「鍛冶」などだ。和人の中にも多い。わか りやすいのは「どじょうすくい」という踊りだ。

   ♪ 親父 どこ行く 腰に籠つけて

 裏の小川へ どじょう捕りに  安来節の名調子にのって、川に棲むどじょうをざるで掬う物真似・模擬的表現を座敷や舞台で滑稽に演じる。 誰が踊っても同じに見えるので一定の形を持つ踊りと思っていた。本場の島根県安来に行ったとき、型をどのよ うに伝えるか尋ねたことがある。すると意外な答えが返った。「型はない。川に棲むどじょうの性格を頭に入れ て、それを掬う時どのようにすればよいか考えながら踊ればいい」という。 この話は型ではなく、踊りを構成し成り立たせる思想だろう。これを聞いて目が覚める思いがした。これは食料 獲得のために自然に直面し、自然の法則を基に出来ている。  東京江東区の木場は、江戸時代に江戸の町家を建設するため必要な材木が全国から集まった。集まった丸太を 柱など角材に製材し、筏に組んで江戸町内の運河を伝って運んだ。この筏乗りを「川並」と呼んだ。近代になる と筏をエンジンのついた船で運ぶようになる。そのため「川並」の技術が必要なくなった。そこで木場では「川 並」の技術を曲芸にして伝承した。水に浮かぶたくさんの角材を、水と角材の特徴を利用して足で自由に操って 筏に組んだり離したりする熟練した技術だ。 和人社会は水稲稲作文化が主流だった。そのため田で働く姿を模擬的に演じる歌や身体表現が非常に多い。代表 的なのは「田遊」だ。これは「豊かな稲の実りを予祝する神事芸能」で基本は「田打・代掻・種蒔・田植・鳥追 ・刈上というふうに、稲作の過程を順に演じる」(『日本風俗史事典』)ものだ。つまり田の中で約半年間行わ れる稲作の労働を、仕事が始まる前の新年や春先に村の広場などで予祝(予め前もって祝う)しておく。二日間 くらい徹夜で演じることが多かった。新井恒易の『農と田遊の研究』によれば戦前まで全国三二八ヶ所で演じら れていた。現代は横浜市鶴見や寒川市、東京都板橋など数十ヶ所に残っている。また、全過程でなく「田打」「 田植」「鳥追」などを部分的に取り出し模擬的に演じるものもたくさんある。田遊を「御田」「御田植祭」「春 田打」など異なった名前で伝承する所も多い。 これらが「神事芸能」といわれることから、これまで天皇制祭祀や神道の体系にまとめられることが多かった。 しかし「田遊」の原理・思想は国家や天皇制・シャーマニズムとは関係なく、自然が食料としての稲・米をもた らすため、自然の生命力や法則を「神」とするアニミズムから始まっている。このことはすぐ証明するが、和人 文化の中で自然との関係を考え、その関係から生まれた文化を抽出しようとするとき、シャーマニズムとアニミ ズムの区別は決定的である。和人文化ではこの区別がこれまで放置されたといえる。そのためすべてが天皇制文 化の体系にあるかのように見えたのではないか。 和人社会には様々な神観念がある。アニミズムやシャーマニズム、その延長の天皇制神話によるもの、あるいは 神道と仏教が習合した修験系など。これらがそれぞれ独立しているならまだよいが、多くの場合区別も出来ず神 道、または天皇制信仰にくくられている。国家的指導者が支配の道具としてあえてそのようにした側面もある。 こうした状態の中で、まず自然を対象に働く者が作った神観念・アニミズムを他と区別し、これを基盤に「自然 と人の共生」の文化(以下「共生文化」)、あるいは国・国家とは違う文化軸を構築したい。この区別をするた めまず大枠として、自然を対象に生まれた文化を「第一次文化」と仮称する。現実的な産業界で自然を対象にし た第一次産業、製造業の第二次産業、サービス業の第三次産業と区別されるのを文化に応用した。

 三、 アニミズムとして

第一次文化でも、神観念を持つものと持たないものがある。「どじょうすくい」「角乗り」はこれまでの調査 では「神」を持たない。とはいえ第一次文化の多くは神観念を持っていて、神事芸能と呼ばれるものが多い。そ の神観念が自然を対象にするがゆえにアニミズムといえるだろう。

 『広辞苑』はこれを「自然界のあらゆる事物 は(略)固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし」とする。ここでの「霊魂」を「神」に置き換える ことができる。最近はこれを「自然の生命力」と解釈するのが一般的ではなかろうか。

 世界中の呪術的「神」を分析した人類学者ジェームズ・フレイザーはアニミズムとシャーマニズムを区別することなく全体を非合理とし、二つの法則「類似の法則」「感染の法則」からなるとする。しかしその一部を「自然 の法則の体系として見るとき、(略)それは理論的呪術とよばれてもよい」とする(『金枝篇』)。

 彼がいう理 論的とは、「自然の法則」であり、その生命力を「神」とするアニミズムといってよい。こうした考えを基に、 第一次文化の中にアニミズムを発見することが出来る。 先にみた「田遊」は「稲作の過程」を模擬的に演じるが、田に蒔かれた種・籾が土の中で育って稲となり、一粒 の籾が百倍以上の籾をつけて米をもたらす、その自然の生命力、法則を演じるものだ。これに歌がつく。地域に よって異なるが横浜市鶴見の「田祭」(田遊と同じ)は「神寿歌」という。歌の前後に天皇制神話が歌われるのでまるで天皇制の体系にあるかと思われるが、「之より鍬入れを行います」と呼びかけ始まるところからは「鍬 入れ」「苗代作」「田打」「苗代掻」など実際の労働を順番に歌う。演技はこの歌に合わせて演じられる。
これはフレイザーがいう「自然の法則」としての「神」であり「理論的」といわれてよい部分だ。決してシャーマニ ズム的「神」ではないし、国家を対象にしたものでもない。 このように「自然の法則」に見合ったものが非常に多い。同じ系統の「御田」「御田植祭」「春田打」などもそ うだ。部分的に演じる「田打」「田植」「鳥追」などもその部分として同じなのだ。

  狩猟・山の民では東北地方に多い「鹿踊」が適当と思うが、伝承では農耕儀礼(稲の成長を鹿の害から守る) の意味がついていて曖昧だ。今も分かりやすいのは、新潟県山古志の「牛の角突」だ。
中越大地震以降テレビで 放映され「神事」なのを知る人が多いと思う。
しかしなぜ「神事」なのか意外と知られていない。
「神事」であ る理由は、自然の中にいる牛は放置していても角突きをする。
強いリーダーを選ぶためだ。
その習性「自然の法 則」を利用し、人が飼育する牛が強く育つよう願う「神事」として行われる(『山古志村史』)。  漁労生活では鯛を釣ってニッコリの「えびす」が代表的だ。
鯛は海の富・魚の代表であり象徴だった。これが 呪術的「類似の法則」によって「お宝をかき集める」商業の「神」となり、さらに鯛を穀物に類似させて農業の 「神」となり、なんでもありの「神」となる。 和歌山県三輪崎に伝わる「鯨踊り」は今もその法則・思想(「どじようすくい」と同じ思想)がよくわかる。
中 でも「御前踊」が典型的だ。
明治時代まで列島の太平洋側は鯨の回遊路だった。
その回路にあたる漁村で鯨漁が 盛んだった。一頭の鯨に網をかけ、大勢の男が乗って銛を打ち込む。鯨を港に運んだとき、待っていた家族や恋 人の前で「この鯨はこうやって捕った」と銛を打ち込む物真似・模擬的表現をして見せたのである。
同時にこれ が新年の「神事」となり、「今年もこのようにして鯨をたくさん捕りたい」と願いを予祝したのである。
「田遊 」と同じ「自然の法則」を模擬的に演じる手法・思想がある。

四、かかしの文化と哲学

 ①体系として  第一次文化からアニミズム的「神」を持つ農山漁村の代表的なものを挙げたが、ここにある自然の法則とそれ を表現する手法・思想を現代に繋げ再生・再編を考えたい。
そのためわかりやすい例は人に知られた「どじょう すくい」かと思うが、共生文化で世界的に関心をもたれるアニミズム的「神」を持っていたかどうか不明ないの で、その代表・象徴として秋の田に立つ「かかし(案山子)」を選ぶこととする。
かかしの持つ「鳥追」の機能 は神観念になっている。しかもこの神観念は第一次文化だけでなく第二次、第三次産業としての都市にも浸透し 、さらに芸術的伝統文化・芸能にもなり、和人社会で広く基本的な文化体系を内包している。そうした意味内容 を持つものとして「かかしの文化」とし、さらにその法則・思想を体系のある哲学として描きだす。

 ②日本文化論の欠落 日本文化に哲学がない(『中江兆民全集』「一年有半」)、思想体系がない(吉本隆明『日本人は思想したか』 )、機軸がない(丸山真男『日本の思想』)といわれつづけた文化論であるが、これら日本文化論が見落として いたものがあると私は思う。
そして、見落としていたものを取り入れると一定の体系が見出せるし、それを哲学 的に抽象できると考える。
日本文化を表明する古代からの文献すべてを読み込んだかのようなこれら先達の業績を前に、私のような者がこ のように言うのは軽率で偏狭な主観と思われるかも知れないが、彼らが明らかに見落としていたものの一つを私 は長年考察してきた。
それは部落問題である。
この問題は差別ばかり話題になるが、その反面で歴史的当事者は 「神」と迎えられる祝福芸・門付芸を家業としていた。
なぜ「神」だったのか、その疑問を解明するだけでも日 本(和人)文化の基盤として、第一次文化と都市文化に繋がっていたのがわかる。
この論文では神観念を取り上 げるが、歴史的当事者としての「穢多・非人身分」は「死穢」など自然の破壊的部分としての気枯=ケガレ(宮 田登『ケガレ』)に触れ、その回生・清め(宮田登『ケガレの民俗誌』)・リサイクルする仕事を担っており、 太鼓、三味線、皮革製品など多くの生活文化を生んだ。門付芸を含め私はこれらを「部落文化」と呼ぶ。 これを日本文化に入れると、少なくともこの国のエコシステムに対応する文明系が具体的になるし、それが共生 文化に不可欠なのがわかる(本誌03・45拙書「部落文明試論」)。
またこうした系・体系が、和人文化を超 えて列島文化、半島文化、大陸文化で共感出来る文化の一つであるのも認識できるだろう(拙書『和人文化論』 )。 ③門付芸「鳥追」と歌舞伎舞踊 田に立つ「かかし」は野鳥を追う機能を持っていた。最近は雀などが慣れて効果がないので「鳥追バルーン」を さげたりプロパンガスをドカーンと鳴したりしている。そのこと自体「かかし」が効果的だったのを示す。万葉 集に「衣手に水渋付くまで植ゑし田を 引板我が延へまもれる苦し」(一六三四歌)という歌がある。「引板」 は今の「鳴子」で、鳴子を引いて田の稲を野鳥から守っている。こうした作業・機能を「鳥追」というが、鳥を 追うことで稲が守れることから鳥追が神事となり、予祝儀礼として年中行事などで模擬的に行われる。今でも各 地に残る子どもの年中行事「鳥追」はその伝承だ。棒で地面を叩いたり、叫んだりして鳥を追う真似をする。
ここにも「自然の法則」の模擬的表現があり、「どじょうすくい」と同じ思想がある。
これにとどまらない。室町時代末期や江戸時代、あるいは太平洋戦争前まで「鳥追」という祝福芸・門付芸があった。
門付芸は主に穢多・非人身分が演じたが、非定着者ともいわれた彼らは第一次文化の神事芸能の多くを新 年の祝福芸・門付芸にして都市に運んだ。
そこで「俳優」=河原者と協力して芸の質的変化をもたらす。
神事芸能の機能を脱却して、人間の喜怒哀楽を表現する芸術芸能=歌舞伎など舞台芸能へ変化させたのである。
これは 「神から人」への質的変化である。
江戸の門付芸「鳥追」は非人身分の女しか演じられなかった。歌は「千町万町の鳥を追うて候」と「田遊」のそ れと同じだった。
しかし新年を過ぎると祝福芸・門付芸の意味がない。
そこで鳥追芸人は「女太夫」となり小唄 、端唄など人情物を歌う流しの芸人となる。
この変化が歌舞伎に取り入れられる。越後から江戸に来て角兵衛獅 子を演じる農民と女太夫の恋をテーマにした常磐津「角兵衛」などだ。

  第一次文化の「神」と、それを基盤に質的変化をもたらした「鳥追」を例に見たが、他の神観念も同じ質的変化 のプロセスを持っている。
門付芸でいうと「春駒」や「猿廻」「三番叟」「万歳」などなどだ。
反面、天皇制をはじめ、それを軸にした文化は変化を持たないし、変化の無いことに価値を認める。
この停滞感 が日本(和人)文化の特徴のよう見えた。
しかし変化が無かったのではない。見えなかっただけだ。
そこに「部 落文化」を入れることで変化とそのプロセスが見えてくる。
これが第一次文化を基盤にした文化の個性だ。
そしてここでいう基盤とその中の法則、法則を表現する手法・思 想と、都市に移動して質的変化をもたらすプロセスにある体系全体を「かかしの哲学」と呼んでおく。

フレイザーについて

 私はこれまで二十世紀初頭のイギリスの人類学者ジェームス・フレイザーの『金枝篇』における呪術の分析を引用してきた。
そこでの呪術の分類・分析の成果が今でも参考になると思うのであるが、私はそのフレイザーの思想は否定している。
以前もそのことを書いてきたのであるが、彼は世界中のシャーマンが使う呪術を「未開」としている。
そして二十世紀初頭のイギリスやフランス、日本などの植民地主義を「未開」を近代化するとして正当化している。この思想はまちがいだ。それはまず近代を至上とする思想においてまちがっているが、それぞれの地域の主体を尊重し、自然と人の共生を考える意味においてもまちがっている。
わたしは多文化・多民族の共生共存を主張している。
とはいえ一方、シャーマニズムとアニミズムの区別がつけられないまま呪術の世界がこのままつづいてよいとも思わない。

フレイザーの分析を引用しながらもその思想を否定するのは私の内で矛盾している。
しかし「類似の法則」や「感染呪術」がこの国の民間信仰や差別の観念を照射しているのは確かだ。
私はその民間信仰の現実に立ち、そこからフレイザーを批判的に超克していく、このように考えている。
その一歩としてフレイザーが区別しなかったアニミズムとシャーマニズムを区別し、アニミズムから新しい文化・思想機軸を考える。
そして、わたしが生活する和人社会の中でそうした新しい文化・思想機軸を築くのに不可欠といえるのは、カオス・気枯の世界に触れ、克服してきた部落文化であるのを確信する。
現代部落問題といわれるものは、呪術的観念としての「忌穢」「触穢」から発生し、形成されたといえるし、そのため差別観がつくられたといえるが、気枯に触れる「清め役」は差別・排除されながらも気枯からの再起・再生のための具体的技術や生活文化を創ってきた。
この部落文化を抽象化し思想化しながら、さらに、これまでこの国で軽視・差別されてきたアイヌ、沖縄、在日の文化に視点をあて、この国の文化全体を再構築したい。