解放のイメージ――最近のメッセイジ

今年三月岡山の「同宗連」総会で行った講演記録である。
【岡山県同宗連総会 記念講演 2017-3-1】
<ケガレのキヨメ>という社会的機能―社会はこの機能で安定した―
                               川元祥一

解放のイメージ――最近のメッセイジ

「部落共同体論」を書き始めて四年くらいになるだろうか。細かいことは後で整理するとして、HPでは一応完成している。しかしそれは、決して完全なものではない。そしてこれに手をいれながら雑誌『部落解放』に連載を始めて約一年、2017年8月に掲載される連載12回のゲラ校正を先日終わったばかりだ。これで三部構成の第一部が終わる。第二部「部落差別の原点・原理」は八回くらいになる。第三部「ハフリ・ホフリの世界」は十回くらいか。いずれにしても、HPに載せているものより内容がだいぶ深まっている。例えば第二部のタイトル「部落差別の原理・原点」では、新しく「その構造と定義」がサブタイトルとしてついている。それだけ認識が深化していると私なりに思っている。その序文(はじめに)は、「逆転・対立・差別構造と大衆化=差別体質」として始まるのも、それを示すだろう。時間が経つとともに新しい史料・資料も見つかっている。
これらの総括は連載終了後行うが、私の脳裏では、その全体像が浮き彫りになっていて、想像力は次のステップに進もうとしている。その次のステップは、部落共同体形成史を把握することで必然かも知れないが、「その解放」である。それを仮に「最終章」とするなら、文章としてそこまで行くにはまだ埋めるべきプロセスがあるものの、映像としては「最終章」が見え始めている。しかもそれは「理論」ではなく、「映像」「イメージ」としてである。「イメージ」といえば曖昧さがあるように聞こえるかも知れないが、「人はイメージによって思考する」とはよく言われるものだ。「イメージによって理論がうまれる」とも言えるだろう。そうした意味で私はこのイメージを大切にしようとしている。
そのイメージをこの時点でわかりやすく言うと「部落共同体形成史」が見えてきたことからして、その解放の大きな手掛かりは、その形成期の「裏側」、あるいはその直前にあるはずだ。
そのように思うと、確実に見えてくるものがある。それは「共同体内分業」の、諸技術者・諸職能者の協力・連帯の中である。しかもその時期が確実にあったのだ。
このイメージについて後で詳しく考察するが、この時点でわかりやすく述べた文章・講演録があるので次にそれを載せておく。
なお、「部落共同体論」を書き始めて約四年間、私はこのテーマに執り憑かれたように集中しており、日常行う身の回りのことが疎ましく、ほとんど手をつけなくなっていた。様々なことに影響し、友人に指摘されて直す場面も多々だった。その中で、インターネットの交信機能のフェイスブックなど、あるいはこのHPそのものさえ放置したままで、プロバイダからの通信を見ることなく、断絶していたのである。HPだけは同じものをグーグルをとおして復活している。その他は、しばらく放置したままになるので、ご承知お願いしたいところです。申訳ありません。

 

以下、今年三月岡山の「同宗連」総会で行った講演記録である。
【岡山県同宗連総会 記念講演 2017-3-1】
<ケガレのキヨメ>という社会的機能―社会はこの機能で安定した―
川元祥一
はじめに
私は、津山の被差別部落に生まれました。明治六年の美作騒擾の時に襲われた村の一つが、私が生まれた村でした。村全部としては、詫び状を書いて許されたんですが、屠畜業をしていた私の家と、もう一軒屠畜業をしている家だけは許されなくて、打ちこわしに遭ったという家なんです。そのため経済破綻していて、とにかく、とんでもなく貧しい家でして、なぜこんなに変な家庭なのかと思いながら育ったものです。
そういう中で、この部落差別というものを、一人一人の日本人が自分で新しい認識をもって解決できる道筋を考えようと思っていました。自信があったわけではなく、いろいろな人や団体と協力しましたが、最終的に、どの団体にも属さずに一人でやってきました。最近になって、こうすれば解決できるかもしれない、という事を思うようになりました。それを、今日は率直に話してみたいと思います。

1.ケガレキヨメ

 

そういう風に思うようになった一つのキーワードが今日の話にある「ケガレのキヨメ」という社会的機能です。この言葉自体は、部落史の研究の中ではそんなに珍しくはないんですが、あまり聞かない言葉でもあります。宗教関係者の前で、「ケガレのキヨメ」と言うと、宗教的に捉えられるかもしれません。そうすると、かなり抽象的に考えられて、どこにでもある「お清め」と受け取られるかと思ったので、この事だけ先に説明しておきます。
部落が歴史的に行っていた「ケガレのキヨメ」というのは、お祈りとか宗教儀式ではなく、非常に具体的な技術だと思ってもらえばいいです。その技術は何かと言うと、一番分かりやすいのは、牛や人が死んだらケガレです。人間は、葬式をしたり埋葬したり、丁寧にしますが、動物の場合はしません。放っておくと、そのまま腐って行きます。腐るのもケガレです。それを腐らないようにするんです。何を腐らないようにするか、わかりやすい例は毛皮です。毛皮は、剥いで置いておくと腐ります。あるいは、そのまま乾かしておくと木の皮のようにカチカチになりますが、そのうち水分を含んで腐ります。それはケガレのままです。それをケガレないようにすると言うのは、なめしを加えて、腐らない革を作る。腐るものを<皮>といい、腐らないものを<革>と言います。女性が持っているハンドバッグが腐れたということはないでしょう。子どもが使っている野球のグローブが腐ったら困るでしょう。その時のなめしが何なのかと言うと、つまり私が言う「キヨメ」です。死んだ牛の皮を剥いで、なめしというキヨメの技術を加えたら、腐らない柔らかい革ができますよ、ということです。この技術を、私は部落の文化、文明と呼んでいます。自然のままだと腐って行くものを、部落の技術を文明として加えると、腐らなくなる。
その技術が、「ケガレのキヨメ」という社会的機能として、応用されていた。皮革は日用品として大切ですが、古代から近・現代まで軍備品として国家が税として取り上げました。そうでありながら差別は厳然としてあったわけです。私の家は、屠畜業をしていたから差別されて、打ちこわしにまで遭っています。屠畜業は、肉を作って、毛皮を作って、皆さんの健康と生活を支えているわけで、それが何で差別されて潰されなければならないか、という思いがずっと頭にありました。

 

2.キヨメ役としての穢多・非人

 

江戸時代の穢多・非人を、私はキヨメ役と呼んでいます。キヨメというのは、宗教的にも使われるし、私が言う技術的にも使われるし、いわゆる掃除という意味にも使われますので、ただのキヨメと言ったのでは、漠然としているので、キヨメの役割を果たす、という意味でキヨメ役という言葉を、穢多・非人の仕事として使っています。戦国時代は、穢多・非人は皮田と呼ばれていました。それが江戸時代に穢多・非人と呼ばれるようになった。しかしそれがキヨメ役だという事を、頭に入れておいてください。
穢多・非人の村ができるのは、戦国時代が終わった後です。その前は諸国の郡の中に多数の村がありました。一つの村の中に、侍もいたわけです。この侍の中の強い者が、宇喜多氏とか毛利氏とかになって行くわけです。そして、当時は専門農家は少ししかないわけです。多くは農耕をしながら様々な技術・職能を持っていました。後の士・農・工・商・皮田です。
この中の大きい農耕民が、農民になって行くわけです。多くの農耕者の中に、職人(後の工)もたくさんいました。この職人の中に、鍛冶屋がいたり、大工がいたり、皮田がいたんです。商人もいたんです。その時期はその職能・技術だけで自立できる経済力はありません。農耕生活が中心で、個人的な特異な技術がその生活に必要な分業としてそれぞれ発達していたわけです。農耕作業で、労力として働いてた牛馬が死んだ場合に、皮を剥ぐ技術者がいなければいけなかった。それがキヨメの技術者です。そして、その皮をなめした革を売って歩く商人もいた。
つまり、農耕しながらこれらの技術者が協力すれば一つの村が、かなり経済的に自立できる基本を持っていたわけです。鍛冶屋が刀を作り、皮田が鎧や馬具を作れば村が武装できた。こういう村がたくさんあったわけです。そしてこのような村の集団が、例えば美作の国などで、そのリーダーになったのが、宇喜多氏や毛利氏でした。こういう村が連合して一つの共同体を作り、戦国大名の「分国」を形成していたんです。自分たちで武器を作って武装して、戦争の訓練までしたわけです。秀吉も、そうやって天下を取ったんです。天下を取った後、彼が一番やらなければならないのは、自分以外の戦国大名の自立性を潰すことです。だから、兵農分離という政策をやったわけです。つまり、侍と農民を分けたわけです。侍を城下町に移して、農民も専門の農民だけの村を作って純粋培養をした。農村という言葉ができたのは、この時です。そして、その農民の牛や馬を解体する皮田村も分断され、鍛冶屋も鍛冶屋町という風に、いろんな職業が分断されたんです。そうすると、もう自立できないわけです。その後は、秀吉が全部コントロールできるわけです。それが天下統一です。
この時に、士農工商というそれぞれ孤立した集団と身分序列の階層ができるわけです。そして、キヨメ役をする穢多と非人村もできる。職業別に分離して、住む所も分けたので、彼らは再び連合して自立する力はない。
しかも江戸時代は、身分が武士と平民と賎民という風に分けられて、かつての皮田が穢多・非人と呼ばれ、彼らは一体何をするのか、全然分からなくなる。だから、部落問題というのはわからない部分が多いのです。士農工商は彼らが何をするか頭に描けるが、穢多・非人はその職業が全然頭に描けなくて、文字がもつ悪意ばかりが頭に浮かんでくる。そういう差別構造が作られてしまったわけです。
その差別観を少しでも解消して、前向きにするため「穢多・非人」という人達がやったのは「ケガレのキヨメ役という職業です」と私は提起しています。士農工商までは誰でもすぐにわかるので、そこに加えてケガレのキヨメ役という意味を一人一人で考えてもらうために、部落のキヨメは技術ですよ、と話しています。

 

3. 部落の仕事

 

江戸時代の部落が行ってきた基本的な職業は、主に「皮革・食肉生産」「警察業務の現場」「神社・仏閣のキヨメ」の三つがあります。その他に、生業として竹細工・草履作り・灯心製造販売など、農業もありました。これら生業は、先の三つの職業を幕府や藩に対する義務とするなら、その職業を安全に支障なく進めていくために、幕府や藩が認めた生業・権利と考えてもらうといいです。例えば、かっての駿府の国の今川氏と部落史の関係では、皮革の生産を義務にするために土地を与える、という権利と義務の関係ができ上がっています。つまり、この三つの基本的職業を遂行するために、いろいろな生業が権利としてある、という風に思ってもらえるといいです。
江戸時代の被差別部落の村には、必ず捕り物道具が置かれていました。それは、今の巡査の仕事をするためです。そのために、専門的な厳しい訓練もしていました。思い付きで雇われたというようなものではなく、きちんと社会の機能の中に組み込まれたものとして、警察業務がありました。全国的に多くの城下町では、牢屋の周りに被差別者がいて、牢屋の番をしていました。農村部では部落の人が順番に出張して農村などの巡回・見回りをしていました。群馬県の利根川には、江戸時代の初めにできた農業用水の水門があります。この水門の警備である水番という仕事を、被差別者の人たちがしていました。ため池の水を落としたり止めたりする仕事も水番と言って、被差別者の役割なんです。また、堰の板を管理しているのも被差別者でした。農民がやると、我田引水と言われているように、自分の田に水を落としてしまうから、第三者がやる。こういう風に、ちゃんとした社会的な機能としてありました。
神社仏閣のキヨメについては、京都の祇園祭で、馬に乗って、鎧兜をかぶって神輿の行列を先導するのが、キヨメの仕事でした。祭りの聖なる空間に敵が入ってきて、乱されるとケガレになるわけです。そうなると、祭りが成り立たないわけですから、それを防御するのが、キヨ役なんです。本当に具体的な敵を防ぐ武力も持っている。でも、抽象的な意味のケガレをキヨメて歩くという役割もしていました。

 

4.  排除される皮田

このような、社会的機能としての仕事・職業がなぜ差別されると思いますか。非常に簡略に言いますと、全部ケガレに触れているわけです。祭りの先導役にしても、日常性の中にあるケガレを祓うことで、その後ろが聖なる空間になって祭りが成り立つ、という宗教的な手続きが取られています。また日本の警察史では、犯罪がケガレで、それに触れるのもケガレという発想がありました。中世の都市、京都や奈良からそうした発想が強くなるのですが、つまり犯罪者を捕まえるのがケガレと思われて、そうした仕事を避けようとしたんです。こんなバカなことがあってはならないと思いますが、現実に身分制度の中に組み込まれたんです。
そうした発想の原点は、十世紀中ごろに施行された「延喜式」だと思います。そこでは国家的祭祀に参加する人の禁忌・タブーが規定されます。その規定に「忌穢・触穢」というのがあって、「穢忌」は「人の死=三十日。出産=七日。六畜[牛・馬・羊・犬・猪・鶏]の死=五日。その出産=三日。肉食=三日」(『新訂増補 国史大系 延喜式前編』吉川弘文館)などとあり、以上がケガレであり、日数は儀式に参加出来ない時間です。
「触穢」はケガレの三転といって、ケガレが発生したら、その場の人と、その人に触れた人、さらに三人目までケガレが転回すると言うものです。貴族の家で子犬が産まれても穢で、その人は儀式に参加できなかった。犯罪がケガレで、それに触れるのもケガレという発想もここにあります。
このようにしてケガレに触れるのを避ける発想が制度化され、だんだんと社会に広がっていきます。
一方「延喜式」にはもっと具体的な規定があります。京都の加茂神社ですが、この境内の周辺に「濫僧と屠者の居住を禁ず」というものかがあります。「濫僧」は「みだらな僧」で、僧の形をして世をしのぐ民衆です。屠者は後に「皮田」呼ばれる人たちです。ここに皮革生産者の皮田が差別される原点があると言えます。また、国家的儀礼の禁忌・タブーである「忌穢・触穢」の発想が、社会一般に拡大するきっかけでもあります。
「延喜式」の「忌穢・触穢」は、江戸時代の五代将軍・綱吉の「生類憐みの令」に取り込まれます。この令は仏教の「殺生禁断」「不殺生戒」が根本にあって、今も人々の生活にある「服忌」の令とも言われます。そしてこの「服忌」に「忌穢・触穢」の発想が生かされ、大衆化しているのです。つまり「ケガレを避ける」差別性が大衆化しているのです。
差別の大衆化はこれだけではありません。キリスト教禁止のために「宗旨人別帳」が作られますが、その作成の中で「穢多・非人」と書き込まれ、別帳として身分制度の固定化が進みます。江戸時代の身分制度はそれを成文化したものはありません。「忌穢・触穢」を基にした習慣法のようだったのが、「宗旨人別帳」で制度的に固定化するのです。こうした歴史は拙書『部落差別の謎を解く』で詳しく書いたので参考にしてもらえば幸いです。
こうした意味で、仏教、特に国家仏教としての寺請制度にある仏教の責任は大きいのです。仏教とは何か、仏教関係者自身が問い直すことも必要と思います。
もっとも、そのような動きはすでに始まっています。部落解放同盟広島県連は、諸仏教教団の原点といえる経典にある差別を指摘し、糾弾もして、そのような文言を書き直すべきと主張しています。仏教経典に人権を問うのです。これは、日本の政治・文化にとって非常に大切なことと思っています。私自身、仏教の、特に古代の国家仏教としての「護国三部経」と言われる経典の中の差別について指摘しています。雑誌『部落解放』に連載中ですので参考にしていただければいいかと思います。

 

5. 元の姿に戻って考える―解放のイメージ

さて私は冒頭で、部落差別について「こうすれば解決できるかもしれない」と思うようになったと言いました。このことを具体的に話したいと思います。
私は一人一人が自分の問題として部落問題を考え、その解決の道筋を頭に描くことが大切と思いますが、社会的運動として批判・糾弾して、この国の政治や文化を変えていくことも大切だと思っています。そのために文章を書くと言ってもいいでしょう。そうした姿勢を持っていますが、仮に政治や文化が変革されるプロセスがあったとしても、そして少しずつ変革されていると思いますが、部落問題の解決のためには、最終的に一人一人の日本人がその解放のイメージをもつべきと思います。そのイメージから理論が生まれる、そうした側面が強いのです。
そのイメージについては、すでに話しました。
戦国時代末期、豊臣秀吉の「兵農分離」は、簡単に言えばその後の「士・農・工・商・皮田」の分離分断であり、農耕を軸としながらそれぞれの技術者・職能者が協力して自立できた「村」や戦国大名の「分国」を潰す事でした。そのことはつまり、分離分断の前は、「士・農・工・商・皮田」がそれぞれの職能・技術を生かして連帯し、協力したから自立的な「村」や「分国」=地域が成立していたのです。私が考える解放のイメージは、この時の「村」や地域の姿です。京都など政治都市ではもっと早くから「屠者・皮田」への差別がありました。しかしそれは先に言ったとおり「こんなバカなことがあってはならない」と思われる認識です。都市にあっても「士・農・工・商・皮田」の職能・技術が連帯・協力すれば人々のヨコの関係が生まれ、自立的地域・町を構想することが出来るのです。これを解放のイメージとして一人一人が持ち、それを基に現代的要素を加えながら自分で考察することで、人間としての自分自身を含めた、解放の手掛かりがつかめると思うのです。
おわり
『おかやま 同宗連だより』第46号(2017-6)より