人々を支えた部落文化 第二回

日本近代医学の母―人体解剖技術
川元祥一

 

「父」だけでなく「母」がいた

江戸時代の医者杉田玄白がオランダから入ってきた人体解剖書『ターヘル・アナトミア』を苦労して翻訳し『解体新書』(一七七四年)を著したことから「日本近代医学の父」と呼ばれているのは先に書いた。しかしその後いろいろな本を読んでいるうちに「日本近代医学の父」と呼ばれる人が他にも結構たくさんいるのに気づいた。例えば、ドイツに留学し破傷風菌など伝染病の免疫発見で評価されている。野口英世もそのように呼ばれるし、杉田玄白の人体解剖書に関連して言えば、それより十五年前京都で『臓志』(一七五九年)を表した山脇東洋も「日本近代医学の父」と言われる。

こうした場合の「父」は先駆者という意味であって、激動の時代に先駆者がたくさんいるのは別におかしくはない。しかし「父」がいて「母」がいないのはどうしてだろうか。ついそう思ってしまう。近代初期の医者が男ばかりだったせいか。しかしこの「日本近代医学の父」という言葉はかなり強い象徴性・文化性がありそうだ。だからこそ多くの「父」がいておかしくない。そして、そうした象徴性からすると「父」と「母」がそろっていた方がより良いのではないか。
そこで杉田玄白の例から、私が言う「日本近代医学の母」像を想定してみる。杉田が晩年書き残した『蘭学事始』(一八一五年)に、その根拠を見ることができる。

日本近代医学の母は「キヨメ役」

よく知られている通り、当時の医者杉田玄白や前野良沢などはオランダ語の『ターヘル・アナトミア』が読めなかった。しかし人体の解剖図が描かれており、この図が正しいかどうか確かめようとした。そうした彼らの前で、刑死した日本人を解剖し、その図が正確なことをその場で教えたキヨメ役(穢多身分)がいた。『蘭学事始』では「穢多」身分の虎松の祖父が解剖して内臓の名前などを教えた様子が書かれている。杉田たちは手に持つ『ターヘル・アナトミア』と見較べ「良沢と相ともに携え行きし和蘭図(『ターヘル・アナトミア』のこと/筆者)に照らし合わせ見しに、一つとしてその図に聊か違ふことなき品々なり」と書いている。
これがきっかけで『ターヘル・アナトミア』に大きな意味があるのがわかり、翻訳に力が入った。そこにいたる過程について杉田は「その日より前迄の腑分といへるはえたに任せ」(前掲書)とも書いている。
このような記述や時代背景からして、当時のキヨメ役=「穢多」身分が「日本近代医学の母」と呼ばれてよいはずだと私は提唱している。しかも当時の「穢多」身分が「御用」「役目」としてケガレ(死穢など)のキヨメを身分的役割とし、あるいは身分的・社会的機能として行っていたことからして、刑死した人間の解剖もキヨメ役の専門的職能・技術であったと推定できることが、杉田の記述からわかる。【写真①】
私がこのような提言をするには、他にも幾つかの根拠がある。杉田玄白が「その日より前迄の腑分といへるはえたに任せ」と書いている、その根拠でもあり、史料ともなるものだ。そうした事例をここで取り上げる。

藩医がキヨメ役と相談―新発田藩

現在の新潟県新発田市は江戸時代は新発田藩だった。その藩の公式記録「月番日記」(新発田市立図書館所蔵)の一八三一年(天保二)に次のような記述がある。

「御城代江坂上昌元義医術為修業斬罪之御仕置者有之節解骸心見度旨伺出候付○○(不明/筆者)寺社奉行江評義申達候(中略)解骸聞済候義何之差支筋も有之間敷哉之評議申聞候付昌元江穢多相対ニ而勝手次第致候様可相達旨建候事」

坂上昌元は新発田藩の藩医であるが、この文章は次のように解釈できる。
「坂上昌元は医術の修業のため、斬首の死罪になった者がいたら死体を解剖して体内を見たい、と城代家老に申し出た。それを寺社奉行で評議した。寺社奉行は、解体について何の支障もないが、穢多身分とよく相談した上で行うよう坂上昌元に通達した」
こうした意味であるが、この通達によって坂上昌元と穢多身分がどのように話したか、実際に解剖が行われたかどうか、後の記述がないので結論はわからない。しかし少なくとも一八三二年(天保三)頃、新発田藩で刑死の死体を解剖するには、藩医といえども勝手にはできず、穢多身分と「相対」に相談(あるいは立会い)することが必要だったのがわかる。
こうした事例と、杉田玄白が「その日より前迄の腑分といへるはえたに任せ」と書いたのを考え合わせると、江戸時代における人体解剖において、穢多身分がどんな位置にあったか推定できるというものだ。
ちなみに、杉田玄白の祖父・杉田玄伯は武蔵国稲毛で生まれたが、後に新発田藩主に仕え、玄白の父甫仙もここで生まれる。祖父が壮年期に若狭国小浜藩に移っている。玄白はこの小浜藩江戸屋敷で生まれた。

 

長岡藩での人体解剖

新発田藩に近いところにある長岡藩(現・新潟県長岡市)では一八三二年(天保三)刑死した男性の解剖が藩医によって行われた。解剖された身体の内臓、いわゆる五臓六腑と言われた臓器が藩の絵師・辰巳教祇によってあざやかな絵巻物として残っている。絵巻物の巻頭には簡単な説明文があり「藩医新川俊篤自カラ刀ヲ執リ」と記されている。この場合、医者である新川俊篤(順庵とも言われた)が自分で執刀・解体した。【写真②】
しかし長岡藩ではもう一つ、女性の解剖図が辰巳教祇とは明らかに違う筆致で描かれた絵巻物が残っている。これら二つの絵巻物は藩医新川俊篤の末裔の新川家に現代も残っており、私はそれら二つの絵巻物を新川家で見せてもらい、撮影もさせてもらった。
女性を解体した絵巻物には説明文がない。奥書もない。そのため解剖が行われた年代とか、絵巻物が描かれた状況が不明であるが、男性の解剖とあまり違わない時期と考えられている。新潟大学医学部などを主体とした新潟県内の白菊会機関紙『にいがた しらぎく』十九号(白菊会は人体解剖を本人が生前に了解する現代の献体制度に基づく全国的な民間団体)は、長岡の藩医による人体解剖の先駆として一八三二年の男性の解剖を取り上げながらも、女性の解剖について「長岡藩では、これと前後して時代は不詳ということでございますが、もう一回、女性の囚人の死罪後の解剖が行われています」とする。【写真③】
このように考えられている女性の解剖絵巻物であるが、その巻頭に解剖をした現場の人物や設備、道具などを描いた情景図がある(新川家所蔵)。人名や設備の名などが書きこまれているのであるが、残念ながら文字が判読しにくい部分がある。
人物の足元、図の真ん中に斬首された女性の屍が「柴ムシロ」と書かれた敷物に横たわっている。それを取り囲む七人。
左の机に座った二人が絵師。他の五人のうち名前が書かれていない人(正面の左側)は助手的な人と考えられている。その他の人は名前が書かれている。そのうち右側で、囚人籠の前に立ち、ムシロの外にいて巻物らしきものを持つ人は「穢多…小政」と書かれている。他に名前が書かれタスキ掛けの正面右側の人と手前に立つ二人、合計三人が藩医である。この中に新川順庵(俊篤)がいたと言われる。
動きを説明する文字はないが、この絵(新川家所蔵)はこの小論のテーマにとって重要なことを伝えている。ほぼ中央で巻物らしいものを手に持ち羽織を着た「穢多・小政」。着物の裾をかざしている人物が、この場面で中心的な位置にいると言えるだろう。そして、少なくとも小政の前の三人の視線が彼に向いているのがわかる。この表情から、三人が小政の指図か教示を待っていると推定できる。しかも彼らの足元に横たわる屍は、まだ何も手がついていない。だからこの絵は、今まさに人体解剖がはじまろうとする、その直前の絵と言ってよい。
ちなみに、この絵に続く次の図面は、現代でも人体解剖の執刀手順と言われる胸元からはじまり肋骨の内側へと切り開いたところが描かれる。全部で二十六図面の絵巻物である。【写真④】
こうした状況が読み取れる絵であるが、ここに立つ「穢多・小政」に、杉田玄白の言葉「その日より前迄の腑分といへるはえたに任せ」と、新発田藩の寺社奉行が通達した「穢多相対ニ而」を重ねて考えると、その重要な意味・役割が読み取れると思うのである。
また私の推測するところであるが、男性の解剖を新川俊篤が行ったのが明らかなことからして、藩医が小政の指図を待っているかに見えるこの女性の解剖が、男性の解剖より先に行われ、そのことで人体解剖を見習った新川俊篤が次に自分で執刀したと考えるのが順当ではないか。

米沢市の「解体供養碑」

最近NHKの大河ドラマ「天地人」で話題になることが多い山形県米沢市。その町のK一丁目は江戸時代のキヨメ役(穢多・非人身分)の居住地だった。当時は皮革生産をはじめ町の警備役などをしたと思われるが、近代になると一方的に仕事を奪われ、生活困窮におちいった。松本冶一郎が訪れた写真も残されている。
米沢市は一九六九年から二年間、都市整備事業のなかで同和対策事業予算を政府から取ってK一丁目の改善事業をするが、地区の人には何も知らさず、地区の人を立ち退きさせて建設した市営住宅に一般市民を入居させた。元の住民は安作りの「改良住宅」一棟に集住させる差別行政をおこなった。このことは『部落解放』(一九九四年十二月号)などで告発してきたので参考にしてもらいたい。昨年(〇八年)品川、太田、港、目黒区の人権担当者のフイールドワークに参加し、久しぶりに行ったが、何も変わっていなかった。
このK一丁目から八百メートルくらい離れた最上川沿いに小さな公園があり一角に「解體供養碑」が建っている。これは明治四年(一八七一年)に建てられた。その前年(一八七〇年)米沢の医師が明治政府に申請し、許可を得て刑死人の解剖を行った場所であり、刑死者の供養のために建てた。【写真⑤】

江戸時代、この場所が刑場だった。そして、江戸時代中後期、同じ場所で米沢藩医による人体解剖が二回行われた。石碑には「米沢藩における解剖の歴史は古く、鷹山公の時代に死罪人を解剖した記録がある」と刻まれている。鷹山公とは九代米沢藩主・上杉鷹山だ。
米沢藩では堀内家が代々藩医を担った。この一族が書いた「堀内文書」に解剖のことが書かれているらしいが公開されておらず、部分的な研究が行われているだけだ。そうした状況で『米沢藩医史私撰』(北条元一・米沢市医師会)という本で、藩医堀内家三代目易庵忠智が二回解剖したと書いている。
一回目は一七六四年(明和二)。この時は骨格と関節の観察だけだった。二回目は一七七九年(安永八)。内臓の観察を行った。「五臓六腑」の観察である。
こうした歴史がわかるが、人体解剖を直接行ったのは誰だったのか。易庵が行ったのか?。この疑問を解明する史料はなかなか見つからないが『米沢藩医史私撰』はその現場について「易庵の他にも、藩医の誰かが共に解剖に立会い観察したのかもしれないが、これも明らかでない。この時代であるから自らメスをとって解剖したのではなく、刑場の死刑執行人―屠者が刑屍を解剖して、いわゆる腑分けを行い、それを観察したのであろう」とする。
明確でないが、ここに書かれた屠者は杉田玄白が「すこやかなる老屠」と書いたのと同じと考えられる。杉田はその人が「穢多」であるのをはっきり示している。(『解放新聞 東京版』)

山脇東洋の場合

日本人の医者で人体解剖に立会い、解剖図を本にした最初の人物が山脇東洋と言われる。『臓志』(一七五九年)という本であるが、その解剖図は今ではあまり正確でないとされる。この本について『近代日本医学のあけぼの』(日本医史学会編)は次のように書く。

「わが国の最初の科学的な人体解剖観察記録。宝暦4年(1754)2月7日、京都西郊で嘉右衛門という罪人の刑屍の解剖を観察した直後に記録を整理し、自己の見解を加えて「臓志」と題した」。

この引用文を注意深く見ると、「人体解剖観察記録」となっており、「解剖を観察した」と書かれている。山脇東洋は自分で執刀したのでなく、杉田玄白たちと同じく、誰かが執刀するのを観察していたのではないか。そんな疑問が生まれる。
というのは山脇東洋の人体解剖については、みずから執刀したというよりも、観察的立場にいたとする表現が多いのだ。例えば、『臓志』『解体新書』など含めて当時の文書や図画、解剖図などを詳細にあげている『図録 蘭学事始』(杉本つとむ編)は山脇東洋が実証主義(当時これを古方家と言った)であったとしながら『臓志』を書くに至る解剖について次のように述べる。「東洋はまず、人間に内臓が類似しているという、獺(かわうそ)を解剖して実証的医術を試み、さらに刑屍の解剖に立ちあって」。
この記述は興味深い。山脇東洋は人体の内臓を実証的に把握するため、まず獺を解剖した。なぜ最初から人体でなかったのか、疑問が生まれるところだ。しかも続いて「刑屍の解剖に立ちあって」となっていることから、自分では執刀していないのではないかと、疑問が続く。
こうした記述を考えると、山脇東洋が自分で執刀したと書けない事情がありそうだ。そしてここで想定できるのがやはり、杉田玄白の先の言葉であり、新発田藩の通達だ。東洋の場合も当時のキヨメ役(穢多・非人)が執刀し、そこに東洋が立ち会う、というのが実態といえそうだ。東洋の業績を論述した『京医師の歴史』(森谷尅久著)はこのときの東洋について「ついにかれみずからはメスを取ることはなかった。執刀の者は、奉行所の処刑に立ち会う卑しい身分の男であった」としている。
また同書は一七五八年(宝暦八)に京・伏見で人体解剖に立ち会った伊良子光顕のことを「斬首者一人を与えられた(奉行所より/筆者)ので、光顕は持参した出刃包丁に鋸をえたに渡して、解剖させた」と書いている。

キヨメ役の技術と協力

山脇東洋と米沢のことはは不明確であるが、「日本近代医学の父」と言われる人々、少なくともその中の杉田玄白や各地の町医者の解剖技術は、江戸時代のキヨメ役(穢多身分)の人体解剖技術にはじまり、伝授されているのがわかる。そうした協力者として、あるいは黒衣として、江戸時代のキヨメ役(穢多身分)を「日本近代医学の母」と呼ぶのは決して無理な話ではないと思うのである。
江戸時代、人体解剖の専門的技術者だったと言ってよいキヨメ役(穢多身分)であるが、その技術をどのように身につけたのだろうか。その過程は今のところ不明である。しかし人間と同じ哺乳動物である牛や馬、兎などの解体処理は専業であり、その技術を人体解剖に応用することはできたと思われる。また、八世紀から牛・馬などの屠畜が禁じられたとはいえ、それ以前からこの国には肉食文化があったし、禁止後も人々は影の文化として肉食を続けた。そうした文化の中で、哺乳動物の内臓名も当然伝わったと思われる。
人体については鎌倉時代に書かれた『頓医抄』という本に五臓六腑の絵とともに肺や心・肝・脾などが書き込まれているという(『図録 蘭学事始』)。こうした本が書かれるには前提となる文化・技術が必要だ。江戸時代のキヨメ役が専門的技術者の自覚をもって、こうした本から技術・知識を学んだことも考えられる。あるいは反対に、鎌倉時代に検非違使の現場などで活躍した「キヨメ」がそうした技術・知識を教示してその本ができた、とも考えられる。
これらの関連史料は、まだまだあると思う。私も話しだけ聞いて史料をみていないものもある。各地でこうした史料を発掘し歴史としてだけでなく、現代につながる部落文化として世に出してもらいたい。本稿がそうした作業のきっかけになれば幸いだ。

『部落差別の謎を解く』より